見出し画像

268.「親の理」ってどんな意味?


はじめに

先日、同じ大教会青年をしている青年仲間が、
天理で飲み会をしている時、
「親の理を立てるってどういう意味だと思う?」
という問いについて、語り合ったと聞きました。

しかし、その内容を聞いてみると、
「親を立てる」と
「親の理を立てる」
が混同しているような状態で、答えが出るというより、各々が自分の考えを述べることに終始したみたいです。

ということで「親の理」が一体なんなのか、
青年層にあまり浸透していない事が発覚したので、今回はそのことについて書いていこうと思います。

「理」について

まず、「親の理」について考える前に、
「理」とはそもそもなんなのか?
ということについて理解しておかなくてはいけません。

そもそも「理」の意味を一言で完璧に説明することは難しいです。
天理教辞典にも

「理」の意義は極めて深遠である、これを定義づけることはむつかしい。

出典:天理教事典

このように書かれています。

こんなに頻出する単語が定義できません、、、、

では困りますので、
「理」の意味を分かりやすく説明すると、

「親神様の御守護、思召、お働き」
「この世の真理」
「この世の原理、原則、法則」
「徳分、特性」

こんな感じで理解しておけば、ほぼ大丈夫だと思います。(※例外もあります)

これらは別々の意味のように見えるかもしれませんが、その根底に流れる意味は一貫していて、
「人間が陽気ぐらしできるように、親神様が与えてくださったもの」
それが「理」の本質です。

例えば、
「元の理」は
「この世の元始まりの時(元)」に現れた「神様のお働き(理)」

「天然自然の理」は
「親神様の懐住まいであるこの世界(天然自然)」の「法則(理)」


「男(女)の理」は
「男性(男)」の持っている「特性(理)」
「女性(女)」の持っている「特性(理)」

こんな感じになります。

ここまで頭に入れておけば、なんとなくは「理」の輪郭が掴めるんじゃないかと思います。

じゃあ「親の理」ってなんだ?


ということで、
今日の本題「親の理」とは、
一体どう言う意味なんでしょうか。

実は「おさしづ」の中に「親の理」という言葉は沢山出てきます。

数が多いので、前後の文脈が分かりやすいものをいくつかピックアップしてみました。

銘々同じ一つ一つ小児早く親が救けたいは親の理ではある。
明治21年5月15日

元々話聞いて、難儀さそう不自由さそう親はあろうまい。救けたいは親の理。
明治21年4月16日

可愛一条は親の理。
明治24年8月15日

子供という、親という、親は辛抱して、この物は数無い物や、残してやろ、と言うが親の理。上と言えば上、兄と言えば兄、親と言えば親の理。
明治24年11月15日

子は可愛というのは親の理。この理は変わった事はないで。
明治24年12月3日

親の理子供悩むを堪えられん。
明治34年1月12日

おさしづに出てくる「親の理」とは、子供に対して
「可愛い」とか
「救けたい」とか
「悩むのを耐えられない」
このように思う、親の思いが沢山書かれています。

つまり、「男の理」とか「女の理」と同じように、「親の理」とは、
「親」の持っている「特性(理)」
このように理解することが、一番しっくりくる解釈なんです。

「女の理」については婦人会が主になって考えますし、逆もまたしかりです。

このように考えると、
「親の理を立てる」
とは、子供側が考える事というより、
むしろ親側が考える事ではないでしょうか?


「親を立てる」についての勘違い


冒頭で、「親の理を立てる」と「親を立てる」がごちゃごちゃになっていると書きました。

ここまで読まれた方は、もう「親の理を立てる」と「親を立てる」がごちゃごちゃになる事はないと思います。

おそらく、冒頭にあげた飲み会の際に、会話のテーマにしたかったのは
「親を立てる」
の方ではないでしょうか。

ついでに「親を立てる」についても、僕の私見を以下に書いておこうと思います。


「親を立てることは大事だ」
天理教を信仰していたら誰しも一度は聞いた事があると思います。

別に親を立てる事は悪くない、、、それどころかむしろ良いことなんですが、
「親」を強調しすぎるのはよくありません。

なぜなら、
「親を立てる」だけではなく、
「妻を立てる」
「夫を立てる」
「子供を立てる」
「仲間を立てる」などなど、
親を立てるのと同じくらい、
自分の周りの人間を立てるのは大切な事だからです。

「互い立て合い救け合い」
ってやつですね。

周りを立てれば、その立てた理(原理)で自分が立っていきます。

時々、
「妻子を放っておいてでも、親を立てればいいんだ」
みたいな思想の持ち主がいるみたいですが、親を立てるために、他の人達を犠牲にしたり、蔑ろにしていたら、それは陽気ぐらしではないですよね。

もしそんな人が周りにいたら、優しく
「違うよ、親だけじゃなくて、周りも皆んな立てなきゃだめだよ」
って教えてあげましょう。


「親への孝心は月日への孝心と受け取る」について


とはいえ、「親を立てる」がこれだけクローズアップされてきたのは理由があるわけで、その理由一つが、
「親への孝心は月日への孝心と受け取る」
という言葉にあると考えます。

この言葉は口伝で出典不明ですが、
教理を理論的に考えていけば、正しい意味の言葉だと理解できます。
(「教理大要 著:諸井慶一郎」に出てきます)

重要なのは、
何が「孝心」になるのか?
と言うことです。

これについては、以前ちょー詳しく書いたので、まだの方は読んでみてください。

(ついでに有料部分も購入してくれたらめちゃくちゃ嬉しいです笑)


「人間の親と子の関係性」
はそのまま
「神様と人間の関係性」
になります。

ですから実は、「親の理」とは
「親神様の人間が陽気ぐらしする姿を見て楽しみたい(親)」という「思召し(理)」
という意味も含まれています。

少し話は逸れますが、「親の理」話になった時に。
「親の理があるなら、子の理もあるんじゃないか?」
という問いが生まれました。

子の理は、おさしづアプリで詮索したら一つだけでてきたのですが、文脈的に、「子の理」の意味については説明されていません。

ですから、「子の理」については自分達で考えるしかないのですが、青年仲間との対話で導き出された一つの答えは、

「親の思いに応えること」
つまり、
「陽気ぐらしをして幸せになること」

これが「子の理」ではないかと思いました。

親への孝心とは、まさに陽気ぐらしをすることになります。

子供が幸せに生きて、
困った時は助け合って、
周りの人を立てて生きていたら、
親はめちゃくちゃ嬉しいですよね。

そしてその状態を見た親神様も喜んでおられると思います。

だから、
「親への孝心は月日への孝心と受け取る」
という事になるんです。

この辺りの神意を汲み取らず、言葉の上部だけをすくってしまうと、悲惨な結末を迎えてしまうかもしれません。

そんな悲惨な道を歩んでいる人がいたら、優しく
「そんなの陽気じゃないよ」
って教えてあげましょう。

最後に


「親の理」の意味、なんとなく掴んでいただけたでしょうか?

気になることがあれば、また誠心誠意応えていきたいと思いますので、遠慮なく教えて下さい。

ちなみに、「親の理」と「理の親」も混同されがちですが、両者の意味が全然違うと言うことも、このnoteご理解いただけたら嬉しいです。

この記事が面白かったという人は、
右下にあるハートマークを押して下さい。
とっても励みになります。
ご意見・ご感想がある方はこのnoteのコメント欄、もしくは僕のXまでメッセージお願いします。
もしサポートしてもらえたらnote更新頻度が爆上がりします笑)


おまけタイム


どーも!DAYキャンプの責任者になった男
ほこりまみれの信仰者こーせーです。

キャンプというものを、ほとんどやった事ない僕ですが、この度DAYキャンプの責任者になってしまいました。

「高校生に大人のキャンプの楽しみ方を教える」
というコンセプトの元、全くのキャンプ素人である僕が企画を考える、、、、、



もう楽しみで仕方ありません!


しかし、気持ちと実力が全く噛み合っていないので、キャンプに詳しい方がおられましたら、ぜひアドバイスお願いします。(切実)

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!

ほな!



サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!