241.「かしもの・かりもの」は身体だけ?身の回り全て?#1


はじめに


先日Twitterで、「かしものかりものは身体のみ」という内容のツイートをしました。



この画像は「天理教学研究33 教理の研究と実践-深谷忠政先生に聞く-」
の中で「『かしもの・かりもの』の教理について」と題した段落で語られた内容です。


原典によれば、身上が「かしもの・かりもの」であって、衣食住は天の与えであると教えられていますので、このように区別しておく必要があります。


僕自身これを読むまで「かしもの・かりもの」が
1、身体のみ(身の回り物は天の与え)
2、身体と身の回りを含む全て

どちらが正しいのか深く考えたことがありませんでしたので、今回色々と調べて思案した結果、

「かしもの・かりもの」は身体のみ

という結論に至りました。


この結論に至るまでの過程を書くと、めちゃくちゃ長くなりそうなので、
今回は「僕の悟りについて」
次回は「原典による裏付けと、先人の悟りについてのまとめ」

このように2回に分けて書きたいと思います。



「借りた物」と「貰った物」の違い


「かしもの・かりもの」について考える中で、外せない問題になってくるのは、
「借りた物」
「貰った物」
この2つの違いだと思います。

「借りた物」には、
「自由権(使用権)」がある。
つまり、自由に使う事ができます。

しかし、「借りた物」には
「所有権」は無い。
つまり、自分が所有しているわけでは無いので、所有者の意に反して勝手に処分する事はできません。


対して、「貰った物」は、
「自由権(使用権)」も「所有権」もある。
つまり、自由に使うことも処分することもできるという事になります。


まとめるとこんな感じです。

・借りた物
「使用権(自由権)」○、「所有権」×

・貰った物
「使用権(自由権)」○、「所有権」○


しかしこれは、人間同士のやりとりの常識であり、
「かしもの・かりものの世界観」は、
まとめたような単純な世界観ではないと思います。



この世は神の身体


この世は神の身体であり、
人間は神様の身体を借りて生きています。

このよふハ 一れつはみな 月日なり
にんけんハみな 月日かしもの 6号-120

おふでさきにも、このように書いてあるので、
ここに疑いの余地はありません。


では、もし神様から身体を借りていなかったら、
人間は一体どうなるのでしょうか?


この問いに答えるためには、
「そもそも人間とはどのように構成されているのか」
を押さえておく必要があります。


人間は「魂」「身体」「心」の三つの要素から成ります。

「魂」が「身体」をお借りし、
そこに「心」が生まれるのです。

ですから、僕たち人間の本体は「魂」であり、その「魂」が神様から「身体」をお借りし、この世で生を全うしています。

つまり逆説的に考えると、
神の身体であるこの世界で、
「魂だけ」では人間は何もする事が出来ません。


神様から「人間の身体」をお借りすることで、初めて自由に活動できるようになるのです。



自由って何?


天理教では、
「心一つが我がの理」
と言われ、心は自由に使うことができます。


では、
心を自由に使うとはどういう事でしょうか?


このことを突き詰めて考えると、
「心」は「神様からお借りした身体」を自由に使うことができる。
と僕は考えています。


先程、人間の本体は魂だと言いましたが、
魂だけでは、この世界で自由に動くことはできません。


しかし、「魂」が「身体」を借り、そこに「心」が生まれ、身体を自由に動かしていると考えれば、
心が自由に使うことができるのは、
神様からお借りしている身体のみなのです。


自由に使えるということは、ある意味、
神様の思召に沿わない使い方もできるのが、自由だと僕は考えます。

「神様の思召に沿わない使い方は一切できません」
では、自由だとは言えません。

ですから身体は自分の心通りに、
「悪い事を考えたり」
「物を粗末に扱ったり」
「周りの人を傷つけたり」

このように悪い使い方もできます。

しかし、
身体以外のものは心通りに
「好きなタイミングで天気を操ったり」
「食べたい果物を自由に実らせたり」
「嫌いな虫を半径100m以内から消したり」

こんな風に自由に使うことは出来ません、


「自分の心通り自由に使えるかどうか」


これが「かしもの・かりもの」と「天の与え」の間に存在する、大きな差だと僕は考えます。


まとめ


始めに「借りた物」と「貰った物」の違いを述べましたが、この違いは、神様と人間の関係では成り立ちません。

「心」と「身体」(借りた物)
「心」と「天の与え」(与えられた物)
この関係で考えると、以下ようになると思います。

「借りた物」
「使用権(自由権)」○、「所有権」×

「与えられた物(貰った物)」
「使用権(自由権)」×、「所有権」×


ここから分かる大切なことは、

自分の物は一切無いということです。

自分の物は一切無く、全ては神様の身体です。

そして、

その神様の身体の一部である「人間の身体のみ」を、

神様からお借りして、

心通り自由に使うことが出来ます。

これが「かしもの・かりもの」が「自分の身体のみ」だと考える僕の悟りです。


次回、
「原典による裏付けと、先人の悟りについてのまとめ」
お楽しみに!


おまけタイム


どーも!しれっと更新が遅れている男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今回の「かしものかりもの」についてnoteに書くあたり、調べる量と思案を深める時間の長さが、僕史上断トツで1番でした。
(めちゃくちゃ時間がかかりましたが、楽しかったので苦は一切ありませんでした)

更に、僕は常に暇なのが売りなのですが、最近少し忙しかった事もプラスして更新が遅れてしまいましたが、なんとか核となる部分だけでも、こうして書けたので一安心です。

(ただしラジオは現在サボり中)

なんとか来月の頭くらいからは、エンジンかけていきたいです!


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!




サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!