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251.別席制度の変遷について#3


はじめに

この記事は連載記事の第三弾です。

前回、前々回の記事をまだ読まれていない方は、先にこちらを読んで下さい。



前回は別席制度の様々な変化として、
・距離に応じた別席回数
・取次ぎの当番制度
・おさづけの理拝戴は1日3名
・別席の回数が9回に定まる
・その他様々な規定

これらについて、書きました。
今回は、試験について書いていきたいと思います。



試験制度の始まり


別席を運ぶ人が増えるに伴い、
「別席を9回運んでも心に治まっていない人がも出てくる」
「警察の干渉も増していきスパイが別席に潜入してくる」

このような事態が発生するようになってきました。

そのような状況では「ひっそ〳〵(静に)」と御話しを聞く事が難しいので、初席者だけしばらく取り止めた方がよいのではという伺いをすることになります。
その伺いが以下の通りです。

日々取り扱いの本席は元三名に還ると仰せあり、又ひっそ〳〵と御聞かし下されど、新しき別席も致し居りてはひっそ〳〵となりませんから、新しき別席だ暫くじっとして休み、これまでの分だけ別席運びましては如何でありますか、又他にひっそにする事もありますならお聞かせの事願
明治23年1月13日

この伺いに対する返答の抜粋が以下になります。

同日、又別席取扱いの事願
さあ〳〵月々の席出て来る、又出て来る。随分席して、席始めるまで見分け聞き分け。一つ一寸の事、人間心の義理は要らんで。神の理が陰るという。さあ〳〵まあまあ當分の理だけ運んでやるがよい。
明治23年1月13日

このおさしづの

一つ一寸の事、人間心の義理は要らんで。神の理が陰るという。

この返答から、初席者を止める事は許されていないことが分かります。

しかし、
初席者を止めることは許されませんでしたが、
「席始めるまで見分け聞き分け」
と言われています。

長文のため引用していませんが、神様は
「人間に見分けして欲しい」
と言うことをかなり強く仰っています。

「見分ける」ということは必然的に、
別席を運ぶ為のハードルが更に高くなること
を意味しています。


前回の記事でも取り上げましたが、初期の別席を運ぶためのハードルはかなり高いです。

この頃別席を運ぶ事ができるのは、
「一年以上の信者」
「周旋方以上の者(役員)」に限ります。


現代では考えられないくらい高いハードルがあるにも関わらず、このハードルをくぐり抜けてくる「スパイ」や「心が定まっていない者」をどうやって見分けるのか、本部の先生方は相談を重ねて以下のように伺いました。

初席及本席の件に付伺
(前のおさしづにより中山会長より取決め下されしには、
初席の者は会長と事務所一人、先生方一人、三人立合の上、
身の内御話八つの埃の理を説かせ試験をする事、
試験済の者は別席に掛かる事、
本席に出る時同様の上、本席を取扱う。

もしも試験に合格せざる時は、日を経て又試験をする事に定め下されしが、これで宜しう御座いますや伺)
明治23年1月13日

この伺いを承知していただき、「試験制度」が始まりました。


試験の内容
「身の内御話し(十全の守護)と八つのほこりの説き分け」


昔、初席前に試験があったことは有名ですが、
「本席(おさづけの理拝戴)前にも試験があった」
という事は知りませんでした。

初席前に一夜漬けで勉強した人は、本席前の試験で落ちちゃうことになりますね。

実際、記録には9人試験を受けて6人落ちる日もあったそうで、厳しい試験だったようです。
(試験官は基本3人だったそうですが、初代真柱様の日記には、3人の試験官を揃えるのが難しく、1人の時もあったとの記述もあります)

こうして、
「初試験→別席→試験→本席」
という一連の流れができあがりました。


おさづけの理


本席腹痛に付願
さづけというはどの位どれだけのものとも、高さも値打ちも分からん
(中略)同じ理を出してある、皆一手である。重い軽いありそうな事情は無い。
(中略)道具でもどんな金高い値打ちでも、心の理が無くば何にもならん。
(中略)日々の席をする。席をすればさづけは渡す。
その時の心、受け取る時の心、後々の心の理がある。
日々まあ一日の日、結構という理を忘れて了う。どうも残念でならん。そんならその者にはやろう、この者にはやらんというような隔ては無い。今貰うて直ぐとほかす者でも渡さにゃならん。
(中略)いつには同席々々の処、もう何箇月、何ぞという、なれど見分けてくれ。あそこにこうなる、彼奴はなあという理は、目前に見分けて、やったのを取り返し、諭してくれねばならん。
明治23年7月7日 午前3時  

さづけというはどの位どれだけのものとも、高さも値打ちも分からん

ここまで別席制度の変遷を読んできた方なら、解説をしなくても「おさづけの理」にはもの凄く値打ちがあるということが、よく分かるかと思います。


同じ理を出してある、皆一手である。重い軽いありそうな事情は無い。

戴けるのは、「あしいはらいのさづけ」がほとんどで、
かんろだいのさづけ、
息のさづけ、
水のさづけ等、
「あしきはらいのさづけ以外を戴ける人は特別な人なんだ」
という勘違いがあったため、それを訂正されました。


道具でもどんな金高い値打ちでも、心の理が無くば何にもならん。

おさづけの理を、ありがたいと受け取る人もいれば、一種のステータスだと思って受け取る人もいたのかもしれません。

ですから、心の理が大事であることを、改めて諭されているのだと思います。

しかし、心の理が大事だと言われている一方で、

そんならその者にはやろう、この者にはやらんというような隔ては無い。

「神様は隔てはしない」と言われています。

神様は広く多くの人間に「おさづけの理」を渡したいと思っておられるので、本席の場に来た人間には分け隔てなく渡したいのです。

ですが、人間にはしっかり隔てる(見分ける)ように言われています。


目前に見分けて、やったのを取り返し、諭してくれねばならん。

おさづけの理拝戴直前であっても見分けして、席札を取り返してでも諭さなくてはいけないと言われています。

かなり衝撃的なお言葉ですよね。

それだったら
「神様が見分けたらいいんじゃないか」
と思ってしまいますが、天理教の特徴である
「人間の自主性」
を重視されている事が、一連の流れを見ると読み取れます。

これは驚きの事実だったのですが、
別席制度の大半は人間が神様に伺って決まっています。

神様の指示で決まったわけではなく、人間の提案を神様が承知をして決まっていきました。

このように
「神様は人間の自主性を重視されている」
という事実が、別席制度の変遷からも伺う事ができるのですが、
「仮席」に関しては別席制度と違い、神様の具体的な指示で形が定まっているのです。

ということで、来週は「仮席」について書きたいと思います。

to be continue


おまけタイム


どーも!献血した後に意識が飛んだ(ように見えたらしい)男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日、献血した後に一息ついて、椅子に座って休もうとしたところ、献血バスから急に看護師さんが二人降りてきて、僕の両脇を抱えて横に寝かされることになりました。

こんな感じです。

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僕は全く自覚症状が無かったのですが、プロの目から見ると意識を失っているように見えたらしく、1時間くらい横になって休むことになりました。

せっかくだからネタにしようと思って、撮影してもらったのが上の写真です。

前日はたっぷり8時間寝たし、ご飯もしっかり食べたし、血圧も正常だったので、おそらく僕の奇行がもたらした勘違いだと思うのですが、医療関係の方にめちゃくちゃ心配されると。

「あれ?僕って本当に意識を失っていたのかな?」

と分からなくなってくるので、結構怖いなーと思った次第です。

「人間は事実を後付けする」

ということを今回初めて経験して、こういった事で生きづらい人生を送っている方も沢山おられるので、人助けに凄く役に立つ経験をさせていただいたと思ってます。


本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


ほな!


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