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249.別席制度の変遷について#1


はじめに


先日、別席制度の変遷について勉強会がありました。

その勉強会の内容は、
何度も復習したくなる素晴らしいものだったので、
勉強会の主催者と講師の方に僕のnoteで内容をまとめても良いか聞いたところ、快くOKして頂きました。

講師をして下さった方は、Instagramで天理教の明るい悟りを投稿していますので、リンクを最後に貼っておきます。

是非チェックしてみて下さい。

それでは今から勉強会の内容を、僕のnote風にまとめていきたいと思います。



教祖御在世時代のおさづけ



先ず、
「どんな人に教祖がおさづけの理を渡されていたのか」
を確認したいと思います。

「稿本天理教教祖伝」
「稿本天理教教祖伝逸話篇」
このような記述があります。

一に、いきハ仲田、
二に、煮たもの松尾
三に、さんざいてをどり辻、
四に、しっくりかんろだいてをどり桝井
と、四名の者に、直々さづけの理を渡された。
引用:稿本天理教教祖伝p124 


【ポイント】
「道の上に伏せ込まれていた方におさづけの理を渡された。」
「皆10年以上の信仰者であった」

この4名におさづけの理を渡されたのは明治7年(1874年)です。

○それぞれの信仰し始めた年
・仲田儀三郎:文久3年(1863年)
・松尾市兵衛:元治元年(1864年)
・辻忠作:文久3年(1863年)
・桝井伊三郎:文久3年(1863年)

八三 長々の間
宮森与三郎が、お屋敷の田園で農作業の最中、教祖から急に呼び出しがあった。急のことであったので、「何事かしたら、」と、思いながら、野良着のまま、急いで教祖の御前に参上すると、その場で、おさづけの理をお渡し下された。その上、
「長々の間、ご苦労であった。」
と、結構なねぎらいのお言葉を下された。
一一四 よう苦労してきた
(前略)
泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、
教祖にお目通りすると、教祖は、
よう苦労してきた。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す.受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。


【ポイント】
「長々の間、ご苦労であった。」
「よう苦労してきた」

「稿本天理教教祖伝」と「稿本天理教教祖伝逸話篇」を読むと、
初めの頃は、おさづけの理を戴くハードルがめちゃくちゃ高かったことが分かります。


ポイントをまとめると、
おさづけの理は、
10年以上お道の上に尽くし、
苦労して、
真実の心が定まった者に、
教祖が直々に渡されていたと考えられます。

現在とは全然状況が違いますね。

だからといって「今の別席制度はダメだ」「昔のように厳しくした方が良い」とすぐ結論づけるのは、短絡的な考え方だと思いますので、この事について最後のトピックで書いています。


しかし、
陰暦正月26日(陽暦2月18日)教祖が現し身を隠されたことにより、おさづけの理を渡す事ができなくなりました。

その時下ったおさしづは、以下の内容になります。

さあ、これまで子供にやりたいものもあった。
なれども、ようやらなんだ。
又々これから先だん〳〵に理が渡そう。
よう聞いて置け。
明治20年2月18日

「やりたいもの」=「おさづけの理」
であると解釈されています。

そして、
官憲の迫害もあり、思うように渡す事ができなかった「おさづけの理」を、これから段々渡すとおさしづで述べられています。

しかし、
今までおさづけの理を渡しておられた教祖が居られなくなったのに、一体誰がおさづけの理を渡せばよいのでしょうか?

ここで、
通称「おさづけの理 誰が渡すのか問題」

が発生し、本席定めが始まります。
※そんな通称ありません。



本席定め


本席とは、
「おさづけの理を渡す立場」で、
「神様のお言葉を伝える立場」
とよく間違えられるので注意が必要です。

「おさづけの理を渡す立場」〇
「神様のお言葉を伝える立場」×


飯降伊蔵氏が本席に定まったのは、明治20年3月25日のおさしづに対して、真柱様が承知をすることで定まりました。

そのおさしづと真柱様のお返事は以下の通りです。

この渡しものというは天のあたゑで、それに區別がある。
(中略)
それを渡すには、どうも今の処の仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このままでは残念々々。さあ〳〵本席と承知が出けたか〳〵。さあ、一体承知か。
明治20年3月25日

このおさしづに対しての返答が「稿本中山眞之亮伝」に書いてあります。

真之亮より、「飯降伊蔵の身上差上げ、妻子は私引受け、本席と承知」の旨申上げ、こゝに、飯降伊蔵は本席定まり、この後二十年亙って、御存命の教祖の思召をおさしづとして伝え、又、おさづけを渡す事となった。
引用:稿本中山眞之亮伝p56


こうして本席が定められましたが、実はこの15日前、明治20年3月11日より、飯降伊蔵氏は身上で床に伏していました。


その状況は、
「額から玉のような汗が出て、汗が飴か納豆のように、ふくたびに糸を引く」
「肋の骨がブキブキと大きな音を立てて、一本一本折れていくようにも見えた。」

このように、飯降氏は常人には想像できない状態で苦しんでおり、更にその間31回にわたっておさしづが下ったそうです。
(詳細は「天の定規 ―本席飯降伊蔵の生涯― 出版:道友社」等に載ってます)

こういった状況を経て、飯降氏が本席としておさづけの理を渡すようになりましたが、まだ別席制度は存在していません。


めは別席制度がなかった

初期の頃、神様が真実の心を見定めた人を、
身上・事情を見せておぢばに引き寄せて
おさづけの理を渡されていました。
サプライズプレゼントみたいだった)


しかし、
身上に見せられておさづけの理を戴ける人が増えると、
「身上になったらおさづけの理を拝戴できるかもしれない」
と噂が立ち、勘違いする人が出てきたそうです。

「身上になったって事は、俺はおさづけの理を戴けるかも!?」

こんな風に考えた人も出てきたと思います。

そんな勘違いをしてきた人には、
親神様が飯降氏を通して仕込み、
仕込みを受けた人は成人して、
再びおぢばに帰ってくる。

こうして成人した人々の心を見定めて、おさづけの理を渡していました。


しかし、段々とおさづけの理を戴きたい人が増えてきて、渡すことができない状況になってきます。

この状況を打開すべく別席制度が始まり、おさづけの理拝戴のハードルが下がっていくことになりました。


別席制度のはじまり


別席制度の発端になる「おさしづの抜粋」が以下の通りになります。

こうのうというは渡す事情、又々多くの中の事情は又変わる。
ざわざわした中ではならん。静に〳〵。
さあ〳〵取次一人でしっかり分かる。(中略)
さあ〳〵尋ね一条の理は一人で日々の処、
さあ〳〵十分の理を諭して洗い取りてから。
さあ〳〵、深き事情は別段立てゝ、尋ね一条事情深き事情と。
又々一つ深きの事情は、又々一度二度三度まで返やし(後略)
明治21年8月2日

このおさしづの要点を箇条書きにすると、

・こうのうという渡す事情
 =おさづけの理を渡す事情が変わっていくと解釈されている。
・静な場所でしっかりと諭すように
・取次=主に本部員からお話を聞く
・洗い取りてから=十分話しを納得することで心の汚れを洗い取ってから
・「別段席立てて」この言葉が「別席」という言葉の始まりだと推測されている。
・一度二度三度まで返やし=三度までお話を聞いて


これを更に、簡潔にまとめると
静かな場所を別に設けて、
一人の取次から、
三度の席によって、
たすけ一条の精神を十分に諭す
「別席」がはじまる。
このようになるかと思います。

○別席第一段階
一人の取次から同じ話を三回聞くのが「別席」
(違う人ではダメ)


取次の心得


さらに、
取次の心得が、明治21年8月9日のおさしづで述べられています。
要点を抜粋したものが以下の通りです。

1、「晴天の如くの心を定め。この理もよく忘れんよう」
2、「たすけ一条の理を聞き分けるのが一つの理」
3、「元一つの理をよう忘れんよう聞かして置く。」
4、「誠の心が我が身救かるのやで。」

以上4つは、別席制度が始まった頃から現代にかけて一貫している、取次にとって大切な心得です。

特に大切なポイントは2と3で、


「たすけ一条の理を聞き分けるのが一つの理」
別席の話しを聞いて、たすけ一条の心になって欲しいという思い。
「元一つの理をよう忘れんよう聞かして置く」
元の理だけではなく、教祖のひながたを含む大きな意味での元を忘れないようして欲しいという思い。

ここまでが別席制度の初期の形で、ここから別席制度は時代と共に様々な変化をしています。

ということで、続きは次回のnoteで書きたいと思います。


おまけ 現在の制度が悪い訳じゃ無い


別席制度の変遷を追っていくと、
「今の別席制度は間違ってるんじゃないか?」
「本来の形に戻すべきでは?」

みたいな事を思っちゃう人って、結構いるんじゃないでしょうか。

僕も普通はそう考えてしまうと思います。

しかし、勉強会では違った意見が出たので、それも紹介させて頂きます。
※以下は一個人の解釈です。



おさづけで取り次ぐのは
「教祖の御苦労(めちゃくちゃ人救けした教祖の徳・事実)」
だと考えています。

極端な事を言えば、
めちゃくちゃ人救けしている人は、自分の徳を取り次ぎ人救けをする事が出来るという考えです。

でも、ほとんどの人は自分の徳を人に取り次ぐ事なんかできません。

そんな
「人救けをしてない人」であっても、
「めちゃくちゃ人救けした教祖の徳を借りることができる」
それが「おさづけの理」になると思います。


教祖御在世当時は、教祖が50年のひながたを通る途中でしたので、まだ「教祖の徳」だけでは人を救ける徳が不十分でした。

ですから「教祖の徳」に加えて、各々が「長々と伏せ込んだ徳」が必要だったのだと思います。

しかし、教祖が現し身を隠された時点で、教祖は直接の人救けをMAXやり切りました。(50年のひながたが完成した)

それにより「教祖の人を救った徳」だけで、人救けができるようになり、その結果、多くの人がおさづけの理を戴けるようになったのだという考えです。


またおさづけは、一人が一人に対してしか取り次ぐことが出来ません。

教祖ご在世当時と比べて、世界の人口は何倍にもなっています。

このように世界規模で考えた時に、教祖としては一人でも多くの人におさづけの理を渡したいと思われているのではないでしょうか。

そもそも、
おさづけの理を拝戴出来る人数を、
1日MAX1000人で計算しても、

1年で300日お運びがあると計算して、
1年で30万人
100年で3000万人

ですから、
日本人だけに限っても人口の3分の1程しかおさづけの理を拝戴する事が出来ません。

あげれる人が限られているから、広く渡してあげたい。
という親心も感じられるように思います。


今日の豆知識
・いつから本席と言われるようになったのかはっきり分かっていない。
・いつから別席と言われるようになったかも、実ははっきり分かっていない。
・上田ナライト氏がおさづけの理を渡すようになってからは、本席→お運び と呼ばれるようになった。


to be continue


おまけタイム


どーも!洗濯して壊れてしまったワイヤレスイヤホンが、1年の時を経て復活した男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

1年ほど前にワイヤレスイヤホンを洗濯してしまい、左耳のイヤホンが壊れてしまいました。

しかし、右耳のイヤホンは無事だったので、右側のみでイヤホンを使用していたのですが、このたび間違えて左耳のイヤホンを装着したところ、使えるようになっていました。

これはとても嬉しい誤算です。

皆さんも洗濯して壊してしまった物って結構あるんじゃないかと思います。
しかし、諦めなけれ治るかもしれません。

ワイヤレスイヤホンでも、
スマホでも、
ポケットティッシュでも、

治る可能性がありますので、大切にとっておくのも良いかもしれません。



最後まで読んでいただきありがとうございました。



ほな!


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