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117.順序の理<親心 深谷源次郎



はじめに


最近、教祖御在世時の先人の話にどハマりしています。
なぜ、どハマりしているかの考えてみたところ、4つ理由がありました。

・教祖から直接影響を受けていた方達の話だから
直接教祖から助けていただいた感動は、現代を生きる僕達では感じる事ができません。ですが、教祖御在世当時の先人の話を読むと、その感動の片鱗を感じさせて貰える気がします。

・現代でも通じる普遍性を感じるから
現代にまで残っている先人のお話は、洗練されたものが残っているだけに、おたすけや信仰生活の芯を食っていて、全く色褪せておらず、現代社会でも通じると感じます。

・むしろ新しいから
教祖伝や逸話編に載っていない話しが沢山あり、今まで知らなかったお話ばかりなので、新鮮な気持ちで読む事が出来ます。
むしろ時代の最先端をいっているようにも思えてきます。

・単純に面白いから
ドラマチックな展開も多く、単純に読み物としても面白いです。

どハマりしている理由を4つ上げましたが、この4つの理由だけでは表しきれない魅力が、先人のお話には詰まっています。

基本的にこのnoteに書く記事は、僕が「これは面白い」と感情が動いたものです。

ですから、先人の話はめちゃくちゃ面白いので、これからもドンドン登場してくることになると思います。

今日は、河原町初代会長の深谷源次郎氏(以下深谷氏)のお話です。


順序の理<親心


明治二十三年の春、越之國大教会の高橋直秀が深谷をたずねて来た時、深谷はじゅんじゅんと順序一つの話しを説いたそうです。高橋直秀は元都賀の町奉行をやっていた武士で、この時、天理教研究にやって来たのですが、深谷の話に感心して、
「そんなら、私も敦賀へ帰って信仰します」
と決心を言うと、
「高橋さん。敦賀の信者はあんたにまかせる」
と深谷はいい、高橋は別れを告げて玄関に出ました。
 その時、深谷はつかつかと玄関の敷石の上におりて、高橋の履き物をそろえました。すると高橋が、
「深谷先生、一寸待って下さい」
といったそうです。
「先生は今、私に順序一つの理をお聞かせ下された。そのお話によれば、信者である私が会長である先生の草履をそろえるのが理であって、先生が私の履物をそろえるようでは、理が違うではありませんか。」
といいました。
深谷はそれを聞いて、
「高橋さん。たった一時間や二時間のお話で、そこまでお分かりになって下されたことは実にうれしい。だがなあ、高橋さん、世の中のものは、あんたのように分かりのいい人は少ない。みな子供のようなものや。あんたもこれから敦賀へ帰って、信者を育てて下さるのだが、親が子供を育ててやるように可愛がって育ててやって下さい。みんなの信者の草履をそろえてやって下さい
と申したということです。


「世の中のものは、あんたのように分かりのいい人は少ない。みな子供のようなものや。」

このお言葉を読んだ時に、教祖伝逸話篇196「子供の成人」に出てくる、教祖のお言葉を思い出しました。

「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ。」

今回取り上げた深谷氏のお話は、この教祖のお言葉を実践しているお話として、大変参考になると思いました。



親の教えが届かない


本題に入る前に、
「親の教えが届かない」この解釈は
・親神様の教えが子供に伝わっていない
・親の信仰が親神様に届いていない

の二通りがあると思います。

2つ目の「親の信仰が親神様に届いていない」と解釈した場合、
「親の信仰が親神様に届いていないから、親神様の教えが子供に伝わっていない」
と二つの意味を包括する事が出来ます。
ですから「親の教えが届かない」はこの二つの意味を併せ持った言葉だと僕は考えます。



履物を揃える


深谷氏がとった「履物を揃える」という行為について考えます。

本文を読んでみると、高橋氏は、深谷氏から順序の話を聞かされたのにも関わらず、言っている側から、先ほど聞いた順序の話と違う行動をとっている深谷氏に疑問を持ちました。

しかし、深谷氏が「世の中のものは、あんたのように分かりのいい人は少ない。」と言われたように、履物を揃える事が順序が違うとうことにパッと気づく人は、そうそう居ないと思います。

ここでもう少し、深谷氏がどのような考えで「履物を揃える」という行動に至ったのかを掘り下げて考えていきましょう。

ここでの第一の判断基準は、
「どのような心で行動すれば親神様が喜ばれるのか?」
だと思います。

深谷氏は、お道の話に触れたばかりで、まだ何も知らない子であるから「親心」を持って履物を揃えられました。

この親心に対して神様が喜ばれることに異論は無いと思います。

では、子供に履物を揃えさせる事が駄目な事なのかと言われたら、僕は一概にそうは言えないのではないかと思います。

履物を揃えさせる場合でも、
「この人に履物を揃えてもらって、徳を積んでもらいたい」
と思っていれば、それは「親心」であり、親神様に受け取っていただけると思います。

ということは、第一の判断基準では、
履物を自分で揃えても、
履物を相手に揃えさせても、
どちらの行動を取っても正解だと考えられるのです。

そこで、第二の判断基準が必要になってきます。

第二の判断基準は、
「どのような行動をすれば子が喜ぶか」
だと思います。

履物を揃えてもらった場合、子供が喜ぶでしょう。
(信仰心が培われてくれば、申し訳ないという気持ちになりますが…)

一方、履物を揃えさせられた場合の反応は喜ぶだけではありません。

それなりの信仰が積み上がっていれば
「有り難い」
と思って履物を揃える事が出来ますが、
まだまだ信仰が積み上がっていない場合には、
「なんで履物を揃えなければいけないんだ」
と不足し、ほこりを積むことになってしまいます。

ですから
「世の中のものは、あんたのように分かりのいい人は少ない。」
と言われるように、形だけ良くしたとしても、心にほこりを積ませてしまうかもしれません。

この二つの考え方から、まだ信仰の浅い人に対しては、可愛い子供をお世話するように「親心」を持って接する事が、
親神様もお喜びになり、相手に不足させない、
最良の道ではないかと思いました。



おまけタイム


どーも!夜中にお腹が減ったら、とりあえず炭酸水を飲んで誤魔化す男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

僕が嫁に贅沢させて貰ってる物の一つに「炭酸水」の購入があります。

僕は炭酸水が大好きで、最近は色々なフレーバーが付いてるものも多く、とても重宝しています。

特に、最近はお酒を飲める機会があまり無く残念なのですが、炭酸水を飲む時に、

「これは、めちゃくちゃ薄いハイボールだ」

と思って飲むことで、まるで格安居酒屋でハイボールを飲んでいるような気分になれます。

信じるか信じないかはあなた次第です。


本日も最後まで読んでいただきたありがとうございました!


ほな!







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