242.「かしもの・かりもの」は身体だけ?身の回り全て?~先人の悟り編~



はじめに


前回、
「かしもの・かりもの」は「自分の身体のみ」
という理由を。僕の悟りベースで書かせていただきました。

前回の記事はこちら


しかし、そうは言っても、
「原典にはどのように書かれているんだ」
「先人の悟りでは、全てが『借り物』って書いてあるぞ」
「それってあなたの感想ですよね?」

といった意見もあると思います。

ということで今回は、僕の調べた範囲ではありますが、先人の資料について紹介していきたいと思います。

注意事項
※今回の記事は引用だらけの超長文ですので、ご了承ください。
※前回のnoteからですが、『かしものかりものの総論』ではなく、『「かしもの・かりもの」は身体だけ?身の回り全て?』という事に的を絞って書いてます。
※書いてて楽しくなった部分は、ちょくちょく脱線してます。



(おそらく)公式見解


まず、本部の公式見解が一番の基本になると思いますので、個人の出版物ではなく、道友社や青年会といった、本部が母体となって発行されている出版物にはどのように書いてあるのかを見ていきます。
今回確認したのは以下の4冊です。

4冊しかないのは、そもそも「かしもの・かりもの」の教理を説く際に、わざわざ「身体以外のもの」について言及する必要が無いんですよね。

ですから、この4冊の内3冊は「Q&A方式」で「身体以外のも」について言及しています。 

【書籍一覧】
「信仰問答・道友社」

「信仰問答集・天理青年教程第32号」
「布教の手引き -青年布教操典改訂版-」
「信者の栞・道友社」

信仰問答 道友社
Qかしもの・かりものと言えば、身体より外の物は入らないのですか。

 身体より外の物も、親神様からお借りしているようにも考えられますが、かしもの・かりものという言葉は身体にかぎって用いられています。身体をお借りしていることと、その外の物をお借りしていることとじゃ、まったく違った意味があります。その外の物は無くても済ませたり、返却や交換もできますが、身体だけはそれができません。
 それだけでなく、身体は親神様よりのかりものであることを納得することが、すべてのことを正しく理解して信仰を進めてゆける基なのです。
めへ〳〵の みのうちよりの かりものを
しらずにいてハ なにもわからん    3-137

信仰問答集 天理青年教程第32号
問2 身体以外にも、かりものがありますか。

「かしもの・かりもの」という言葉は身体に限って使われています。もとより、この世の一切は親神様の御守護で成り立ち、その中に生かされている私たちでありますから、身体に限らずその他生きていく上で必要な全てを、親神様からお借りして使わせていただいているのです。その中で身体は人間の心と密接不可分のものですから、とくに事分けてお諭しくだされたのでしょう。私たちはともすれば身体が自分のものであるがごとく思い違い、そのため不幸をかこつことになります。
 教祖が事分けて、かしもの・かりものについて説かれたということは、「かしもの・かりものの理」をしっかり心に治めることが、この世の真実を知り、生き生きとした生活を進め、運命を切り替えていく基だということを教えるためです。


布教の手引き -青年布教操典改訂版-
Q身上以外のものについては、かりものといわれないのでしょうか。

 
おふでさきでは、身上についてのみ「かしもの・かりもの」といわれているようです。ほんとうのところは、私たちが生活に要する物いっさいは親神様からの借り物のはずであるわけですが、身上はそのうちで第一の借り物であるから、特に「かしもの・かりもの」といわれ、その他のものについては、天の与え・親神様のお与えと申しています。
 自分の身上だけは、人に借すこともできず、また自分の存在に欠くことのできぬものであるため、我がものと考えやすく、それで特に分けていわれたのでしょう。
信者の栞 道友社
それをめい〳〵に、身上をはじめとして、いろ〳〵のものを心だけに貸し与えてもろうて、日々通るのでございます。その貸し与えて頂く理は何処にあるかと申しますれば、心にあるのでございます。そこで、心一つが我がの理と申します。


以上4つの引用文献の内容を箇条書きでまとめると

①「かしもの・かりもの」は身体のみ。
②身体以外のものも、親神様からお借りしている(とも言える)。
③身体以外のものは「貸し与えて頂いている」「天の与え」「親神様のお与え」と表現している。(身体はそのように表現しない)
④身体≠身体以外

このように考えられるかと思います。
(意味は大体同じなんですが、身体以外をどのように捉えるかというところに、本によって熱量の差を感じますね。)

どうやら、これらを読んでいると身体と身体以外のものを、
同じ「かしもの・かりもの」として同列に並べてしまうことに問題があるようです。

深谷忠正氏も「みちのとも 昭和40年2月号」にて

人間が生活に必要なもの、衣食住も全て借物として説くむきもあるが、
衣食住は天の恵み
身上は借物

区別した方が、一層はっきりと借物の意味をつかめるであろう。
そしてこれが原典に則した用法である。「天理教教典」ではこの点特に注意が払われている。

このように言われています。

「天理教教典」「第七章 かしもの・かりもの」を見てみると、確かに身の内に限って説かれています。

また、「第四章 天理王命」では

親神は、元初まりに当たり、親しく、道具、雛型に入り込み、十全の守護をもって、この世人間を造り、恒にかわることなく、身の内一切を貸して、その自由を守護し、又、生活の資料として、立毛をはじめとし、万一切を恵まれている。

このような記述になっています。

ですから、深谷氏の書かれている通り、
「衣食住は天の恵み」
「身上は借物」

とするのが、「天理教教典」の編纂に関わられた、二代真柱様を始めとした先生方の総意のようです。


そして忘れてちゃいけないのが
「天理教辞典」です。
(すっかり忘れてました)

「天理教辞典 第三版」「かしもの・かりもの」について書かれてある項目の一部を抜粋し、簡単にまとめました。

かしもの・かりもの
「かしもの・かりもの」という教理は、天理教の独特な教理の一つで、「人間とは何か」を明らかにするものである。この教理は、広義には、いくつかの教理(1)〜(3)から成り立っている。
(1)「この世は神のからだ」
(2a)「一れつ兄弟姉妹」
(2b)「身の内かしもの・かりもの」

以上の教理は「こふき本(16年桝井本)」に述べられている。
(3a)「ほこり」
(3b)「いんねん」
(3c)「出直し」

「かしもの・かりもの」の教理は広義には上述したすべての教理を含むが、一般には、これをそれぞれ分けて、(2b)を指して「かしもの・かりもの」と言う場合が多い。この(2b)が中心的な教説である。

流石「天理教辞典」分かりやすい。

正直ここで終わっても良いくらいなのですが、それだと僕の労力が無駄になってしまうので暫しお付き合いください。

それではこれから、先人の残された資料を見ていきたいのですが、量が膨大なので、できるだけ淡々と進めていきます。

淡々と進めていない箇所は、今回の主題に限らず僕が面白がっている箇所だと理解していただければと思います。


教祖御在世当時の先人の悟り


教祖から直接教えて頂いた先人の全ての話しを網羅することは、出来ませんが、出来る限り調べてみましたので、その結果と考察を書いていきます。


こふき話


「こふき話」とは、簡単に説明すると、
教祖から日頃お聞かせていただいているお話を側近の人々がまとめたお話です。

「こふき話」自体は数十種類存在していますが、その一部が二代真柱様の著書「こふきの研究」に掲載されています。
掲載されている「こふき話」は以下の通りです。

「和歌体14年本 山澤本」
「説話体14年本 手元本」
「説話体14年本 喜多本」
「説話体16年本 桝井本」
「説話体18年本 小松本」

こうき本で興味深い部分は、
「十全の守護」も神様からの借り物である
と書かれているところです。

ということで、こうき本を代表して「和歌体14年本 山澤本」の一部を引用します。

かりものハ めへうるをいと ぬくみいと
かハつなぎいに しんのほねなる
のみくいや でゑいりなるも いきなるも
これみなかみの かりものなるぞ
このことを うたがうのもハ さらになし
これうたふがへバ ごりやくうすし
かりものを まことしんじづ おもうなら
なにかなハんと ゆう事ハなし
(中略)
せゑじんに おふじじきもつ りうけいも
ふじゆなきよふ あたへあるなり

読みやすいよう漢字に直すと

かりものは 目潤いと 温みと 
皮繋ぎに 芯の骨なる
飲み食いや 出入りなるも 息なるも
これ皆神の かりものなるぞ
この事を 疑うものは 更になし
これ疑えば ご利益薄し
(中略)
成人に 応じ食物 立毛も 
不自由無きよう 与えあるなり

このようになります。

「和歌体14年本 山澤本」では
「身体がかりもの」「食べ物、立毛は与え」
と書かれていました。

ちなみにこの後、
「かみさまの かりものなるハ いちにがん(眼) これハ月さま かりものなるぞ
と十全の守護の「かしこねのみことさま」まで、「かりものや」という文言が続きます。また、
「にんげんハ しにいくなぞと ゆうけれど しにいくやない かりものかやす」
と出直に関する場面でも「かりもの」出てきます。


閑話 
なんで十全の守護を「かりもの」と呼ばなくなったの?
天理教教典にて、十全の守護が「かりもの」ではなく「守護」と書かれています。
なぜそうなったのでしょうか?
その理由は、第13回教義講習会にて山澤為次氏が語られています。
『「人間身の内の…の守護」とあるところは、実を申しますと、「この神様のかりもの」というように書かれてあったのでありますけれども、ここで余りにかりものということを詳しく説きますと、あとの第七章と重複する嫌いもあり、ややこしくなります所から、ここではご覧の様な書振になっております。そういうお心持ちでお読み頂きますれば、この文章の成立がおわかり頂けると思うのであります。』
どうやら、内容が重複してややこしくなる事を避けるためだったようですね。


高井猶吉「高井家資料」


高井家資料は大変興味深く、中々考察がはかどりました。

高井家資料
我々お互いは人間身上のみならず世界の万物皆この神様よりお借り申しているのである。何一つとして自分のものは無い筈である。なぜならば死する時にものはもって行けませうか、どんな大切なものだと云うてもさっさとおいて行かねばならん。
 神様はその人の与へは「身上に与へて居るのやない心に与えてある」と仰せ下されている。「身上は神のかしものや身上に与へたならば世界中は一手や」と仰る、心受け取って心通りの与へを渡す、心違えば天の与へは違う。親がいかほど立派で尚財産があっても与へのない子が与われば子の代できれいに名誉も地位も財産もつぶしてしまう、又親がいくらまづしくとも与へのある子が与われば子の代に仕上げるで、親はからだは生み出すことが出来るが心まで共に生み出すことは出来ないと仰しゃる。親子でも其の通りであるから世界中の人々は皆それぞれ心が違うので天の与への違うのは当然のことである。
 心さへ神様の御心に叶へば天よりはいくらでも与へても下さる。それに人間の思案で行ける様に思うから間違いが生ずるのである。
 「借物の理さへ解れば何かの理もあざやか」と仰せ下されてありますから早くさとらして頂き神様の御心に叶う心を使わして頂かねばなりません。

以上のように、

「万物皆この神様よりお借り申しているのである。」

と書かれた次の段落で、

神様はその人の与へは
「身上に与へ居るのやない心に与へてある」
と仰せ下されている。
「身上は神のかしものや身上に与えへたならば世界中は一手や」
と仰る。

とあります。

このカギ括弧で括ってあるお言葉は、「神様は~~仰せ下されている。」とあるので、おそらく教祖のお言葉かと思います。

そもそも「天理教教祖伝逸話篇」にて教祖は

「与えは神の自由」(86大きな助け)
「すべて、神様からのお与えものやで」(138物は大切に)
「食物は皆、親神様からのお与えであるから」(145いつも住みよい所へ)

このように「与へ」と仰っています。

教祖は食べ物等、身体以外の物に関しては「与え」と言われていた様子がうかがえます。

またこの高井家資料から、僕にとって新しい考察が生まれたのですが、その事について書くにあたり、まず「魂」「身体」「心」の捉え方について説明します。


「魂」「身体」「心」について


僕は、
魂が身体借りて、そこに心が生まれる
と考えています。

おふでさきには、

高山に くらしているも たにそこに
くらしているも をなしたまひい 13-45

をやこでも ふう〳〵のなかも きよだいも
みなめへ〳〵に 心ちがうで 5-8

このように、どんな人間でも魂は同じだが、肉親であっても心は皆違うと書かれています。

この事から、魂と心は別物だということが読み取れます。

更に「おさしづ」にて

身上ありて心あるもの。身上無うては心に思う事も出けよまい。
(明治21年7月24日補遺)

身上ありてこそ人間心の理を働かし、いろ〳〵どうしたらよかろこうしたらよかろと思う。
(明治29年9月29日補遺)

このように
「身上ありて心あるもの」
とあります。
「心ありて身上あるもの」
ではありません。

また、
「身体が無くては、心に思う事も出来ない」
とも言われています。

このことから、
身体があって心がある
ということが分かります。

ですから
①生き通しの魂がある
②その魂が身体をお借りする
③そこに心が生まれる

「魂」「身体」「心」の関係性は、このようになっているのではないかと考えられます。

このことを踏まえて、この高井家資料を読んだ時に
「魂」←「身体」
「心」
←「天の与え」
このように、
『「魂」には「身体」、「心」には「天の与え」それぞれ別ものに対応しているのではないか?』
という新しい考察も見えてきて、かなり興味深かったです。

この事については、現時点で何か面白考察があるわけではないのですが、面白い悟りが生まれそうな気がするので、温めておこうと思います。


梅谷四郎兵衛「梅谷文書」

船場大教会が発行「梅谷文書」の「教話抄」を確認。
「身の内以外もかりもの」という類の文言は確認できず。


山田伊八郎「山田伊八郎文書」

敷島大教会が発行「山田伊八郎文書」の「かしものかりもの」、
道友社編 先人の遺した教話「根のある花・山田伊八郎」の「かしものかりもの」2冊を確認。
「身の内以外もかりもの」という類の文言は確認できず。


加見兵四郎「口述記 加見兵四郎先生口述」

加見兵四郎氏から聞いたお話を、村田卯平氏が書き留め、更にその書き留めたものを高野友治氏が書き写して発刊した本です。

この本では「身の内以外もかりもの」という類の文言が、複数確認できました。

その一部を引用します。

天理とは、身の内、世界、万物は借物、息から知恵まで借物の理であることを心に納めて、自由自在はみな神様がさして下さる。小便から大便まで、風呂に入れていただいたら垢まで落として下さる。日々頂いた食事の味まで見て下され、神様にまるごと養うて頂いて、陽気ぐらしを神様にさして頂いていることを天理という理であると悟るべし。
身の内、世界万物は、神様より貸して頂き、与えて頂いている。

ここで注目したいのは、二つ目の一文です。

「身の内、世界万物は、神様より貸して頂き、与えて頂いている。」とありますが、仮にここに書かれているのが「身の内」のみだった場合、「与えて頂いている」という表現は出てこないと思います。

身の内は、神様より貸して頂き、与えて頂いている。

これには違和感を感じますよね。一方

世界万物は、神様より貸して頂き、与えて頂いている。

これには、あまり違和感を感じない気がします。

ということはやはり「与て頂いている」という文言は「世界万物」にかかっていると考えられます。

またこの表現は、信者の栞に出てくる
「貸し与え頂いている」
という表現に通じますね。


正文遺韻

正文遺韻
身のうちさへも、かりものなれば、よろづ一さい、みな借りもの。世上せかいに、ありとあらゆるものは、くふもの、きもの、すむへをはじめとして、すっきりみな神さまのもの。月日様のじいうようで、できまして、月日さまが、しはいしてくださる。めい〳〵にんげん心だけに、よろづかしあたへて、ちようはうさしてくださるのでござります。
 よつて、めへ〳〵のもの、にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。いちれつ一切、みな月日様。月日さまのせかい。にんげんは身上かりうけて、にぎはしく、くらさしてもらひますのでございます。そこで、身上かしもの、かりもの。心一つがわがの理。これが、をしへのだいでございます。

正文遺韻では
「よろづ一さい みな借りもの」
「めい〳〵にんげん心だけに、よろづかしあたへて、ちようはうさしてくださるのでござります。」

このように書かれています。

正文遺韻は、教祖から直接伺った話ではなく、教祖から教えを受けた先人の話を諸井政一氏が書き留めたものです。

この内容は、高井家資料に書いてある内容と重なる部分が多々ありましたので、住み込み青年第一号としてお屋敷で勤められていた、高井猶吉氏の話を書き残されたかもしれないなーと、勝手な想像を膨らませてしまいます。

また、後半部分で「身上かしもの、かりもの。心一つがわがの理。」と書かれていますし、全体を通して読んでも「(おそらく)公式見解」として箇条書きした4つのポイント

①「かしもの・かりもの」は身体のみ。
②身体以外のものも、親神様からお借りしている(とも言える)。
③身体以外のものは「貸し与えて頂いている」「天の与え」「親神様のお与え」と表現している。(身体はそのように表現しない)
④身体≠身体以外

これとも矛盾しないと思います。

という事で、本当は今回で終わりにしたかったのですが、あまりにも長すぎるので、ここで一旦終わりにして続きは次回にしたいと思います。
(しばらくしないかもしれません)


おまけタイム


どーも!更新を初めて二週連続休んだ男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

二週間連続で更新できなかった理由はもちろん
今回の記事を書くのがめちゃくちゃ大変だったからです笑。

本当は今回で終わらせる予定だったのですが、1万字以上書き終えた段階で軽く見積もった所、下手したら全文で1万5000字を超えてしまう可能性があることが本日判明したので、とりあえず7000字分を更新することにしました。
(現時点でまだ4000字眠っているまとめがあります。)

長文ここまで読んでいただきありがとうございます笑

面白い気づきや学びは沢山あったのですが、如何せん僕にとって行の時間が長過ぎてしんどかったですし、ぶっちゃけ書いててあまり面白くないので、こういう「〇〇でないことを証明する」系のnoteはもうやりません。
(引用がメインになるので面白くない)
(切実に!)


やっぱり、楽しくnoteを書いていきたいので!



なんだか、これ以上書いても蛇足になる気がしてきました。



決めました!


やっぱりよほど反響がない限り、しんどいので続きは書きません。

既に書き終えた分もお蔵入りにします。

そのくらい疲れましたので、ご勘弁願いたいと思います笑


あと、これは本当に蛇足かもしれませんが、青年会主催の「おたすけピックス」に出ることになりました!

暇でしたら聞きにきてくれたら嬉しいです!

暇じゃないのに来てくれる人は僕公認の変態に任命させていただきます笑

下から応募できますのでよろしくお願いします!

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「僕専属クリエイター嫁作」↑




サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!