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221.稿本天理教教祖伝逸話篇「39 もっと結構」を鬼掘り下げてみた


はじめに


先日、別アカウントで更新している
「天理教で人生後略するラジオ」で、
「15.人に物を盗られる喜び」という内容を話したのですが、話の流れから、
結論「どう転んでも物を盗られる方が良い」
という結果になりました。

ラジオのコンセプトとして、分かりやすさと熱量重視で、教理的な説明はしないと決めているので、今回はラジオで話せなかった教理的な側面について掘り進めてみたいと思います。

ちなみにラジオはこちらから聞けます↓

Spotifyやポッドキャストで聞かれる方はこちら↓



「15.人に物を盗られる喜び」のおさらい


ラジオを聞かれていない方も沢山いると思うので、まず簡単におさらいしたいと思います。


「自分の物を誰かに盗られた時に、どのような心持ちで対処すれば良いか?」
という問いに対する答えを、天理教の言葉に求めました。

今回取り上げた言葉は、教祖伝逸話篇「39.もっと結構」に出てくる。
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」
という言葉です。

この言葉の凄いところは、
「物を盗られた人に言われた言葉ではなく、物を盗られなかった人に言われた言葉」
だということです。

物を盗られた人にかけられた言葉であれば、不足して沈んでいた心に明るさを取り戻す言葉として納得できます。

しかし実際は、「物を盗られなくて助かりました、神様ありがとうございます」とお礼を言いに来た人にかけられた言葉です。

ラジオでは話していませんが、「世界たすけに活かす おやさまご逸話」の中で、このお言葉は、物を盗られてしまった場合でも同様のことを教祖は仰ったのではないか、と茶木谷先生が推察されています。

僕も茶木谷先生と同じように考えた結果、
「ということは、結果がどのように転んでも、物を盗られる方が良いと言えるのではないか」
という考えにいたりました。

ラジオではこの後、
・「盗られる」というのは、広義で見れば「与える」
・戦略無きギバー(誰彼かまわず与える人)が最強
・戦略無きギバーといえばあの人とあの人
みたいな話しもしていますが、ここは割愛させていただきます。

気になる方は、全部で9分くらいですので、ラジオを聞いてみて下さい。

Spotifyやポッドキャストで聞かれる方はこちら↓



人に物を盗られる喜び


ということで、本題に移ります。
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」のお言葉に関連するであろう、逸話と教理を上げていきたいと思います。

僕が関連する思った教理は以下の通りです。

・かしものかりもの
・貧に落ち切る
・米泥棒を許したお話
・人をたすけて我が身たすかる
・高うこうて安う売る
・天に届く理
・世界一れつ兄弟

それでは、これらの教理との関連性について見ていきたいと思います。


「かしものかりもの」


ここは基本的な部分なので、あえて説明しなくても問題無いと思いますが、一応簡単に説明しておこうと思います。

盗まれた物にいつまでも固執してしまうのは、
「この世にあるものは全て神様からお借りしているのものであり、自分の物は心しかない」ということ、つまり「かしものかりものの理」が心に納まっていないからだと思われます。

「盗まれたものが自分の物である」と、物の有る無しに心を囚われてしまっては、「かしものかりものの理」が心に納まっているとは言えません。


「貧に落ちきる」


グローカル天理に連載していた「教祖伝探求 深谷忠政」に、貧に落ちきることについてこのような文があります。

困窮している者を物心両面でたすけたいのが”をや”の思いですから、それを具現化する立場の布教師は、物心共々与える一方で通ります。その結果、自信は貧に落ちきることになります。それは一面では“物への執着を取り、心の明るさを得る”修行なのですが、しかし、いつまでも目の前にものがあれば執着心が出るのでは心が成人できたとは言えない。つまり、やがては、物のあるなし・貧富に関わらず、心の明るさが保たれるようになる。

ここに関しても先程の「かしものかりもの」と同様です。

「物のあるなし・貧富に関わらず、心の明るさが保たれるようになる。」
とあるように、幸福の価値基準を物や貧富に置かなくなり、心を囚われなくなれば、物を盗まれることで「自分が損した」という思いは無くなって来ると思います。

つまり何が言いたいかというと、
「かしものかりもの」が心に納まっていたら、自分の物(だと思っているもの)が無くなったところで、マイナスの感情は生まれません。

それでは次に「もっと結構」という言葉に焦点を当てていきたいと思います。


「もっと結構」って何が結構なの?


逸話篇「39.もっと結構」には、何が結構なのかが具体的に描かれていません。
そこで、他の逸話篇を参考に何が結構なのかを考えてみたいと思います。

逸話篇「104.信心はな」にこんな一文があります。

「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度はお客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である。」

ここで注目したいところは
「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。」
この部分です。

これは
「問屋とお客に喜ばれた理で自分も栄える」
という意味だと思います。

世の中には「出せば入る」とか「与えたら与えられる」という考え方があります。

これは、「循環の法則」というやつで、「情けは人の為ならず」と同様、良いことは回り回って自分に帰ってくるという考え方です。

「喜ばれた理で自分も栄える」は「循環の法則」とは似て非なるモノで、人間が人助けをする姿を見て、神様が与えてくださることです

下の図1のようなイメージです。

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自分の物が盗られるのではなく、与えているんだと変換できれば、自分は神様から御守護を頂戴できるわけですから「もっと結構」になるわけです。


それでは「物を盗られる人」や「人に与えてばかりの人」は皆幸せかと言われたら、そうではないと思います。

なぜなら、そこに心が伴わないといけないからです。

逸話篇「144.天に届く理」には、

「そうそう、どんな辛い事や嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。

このように、行いではなく心の状態が、そのまま神様に届いてしまうようです。

ですから、ものを盗られた時に、腹が立ったり、不満を抱いていたら、その心がそのまま神様に届いてしまいます。

そうならないために、物を盗られても喜ばなくてはいけないのは、人間の常識で考えれば中々理解できません。

しかし、おさしづにも

満足は心の理、優しき者は日々満足、満足は小さいものでも、世上大き理に成る。(中略)満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天理に適う。適うから盛ん。
明治33年7月14日

このように、「喜ぶ理は天理に適う。適うから盛ん」ということですので、どんな状況でも喜んで通ることが、陽気ぐらしの為には欠かせないと思います。


親神様の視点


最後に、親神様から見た視点について僕の悟りを書きたいと思います。

教祖がまだ「月日のやしろ」となられる前の逸話に、米泥棒を許されるお話があります。
稿本天理教教祖伝の中で、
「貧に迫っての事であろう。その心が可哀想や」
と当時の中山みき様の言葉が残されています。

この「心が可哀想や」という思い。
親神様も盗みを働く子供(人間)を見てそのように思われているのではないかと思うのです。

米泥棒に関しては、貧に迫り、家族が生き延びるため仕方なく泥棒に入った、そうしたどうしようもない事情が見えたので、中山みき様は米泥棒を許されたのではないかと想像します。

しかし、盗みを働くのはそのような場合だけではありません。
私利私欲のため、我が身勝手で行う盗みも沢山あります。

人間の立場から言えば「同情の余地も無い」と言えるような場合でも、親神様から見れば、どんな人間であっても可愛い子供なので、盗みをしてしまうような心が可哀想だと思っておられるのではないかと考えてしまいます

例えばですが、お菓子を取られた方が兄と、お菓子を取った方が弟が居たとしましょう。 

兄が、弟が自分のお菓子を取って食べているのを見て、
「お腹が空いてたんだね、お菓子を食べられて良かったね」
と優しく接している姿を見た時、親の気持ちはどうでしょうか?

きっと「優しいお兄ちゃんだね、偉いね」と兄の成長を喜ぶと思います。
もしかしたら、兄にご褒美だってあげちゃうかもしれません。

これがもし、
「弟にお菓子を取られそうだったけど、取られなくて良かった」
と報告してきたら、
「お兄ちゃんなんだから、弟にお菓子を分けてあげなさい」
と言ってしまうかもしれません。

まさに教祖が「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」
とは、このような親としての思いが溢れ出たものではないかと思うのです。

教祖から見た「盗みを働く人」は、この弟のようにまだ小さくて、何が悪くて何が良いのか判断が付かない幼い子供のように見えているのかもしれません。

ですから、先に神様の教えに触れた信仰者は兄として、まだ教えに触れたことの無い弟に暖かく接してあげることが、親神様の望まれていることなのかもしれません。



おまけタイム


どーも!天才的なカレンダーを作った嫁を持つ男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日、嫁がカレンダーをいじって、オリジナルカレンダーに変身させていました。

そのカレンダーがこちらです。

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そうです、なんと丁度一年前の子供の写真を風景の上に張っちゃうことで、カレンダーを見る度に一年前の子供の状態と今の状態を比較できる「思い出比較カレンダー」です。

オーダーメイドで作っている会社がありそうですが、頼むと高くなってしまうので二の足を踏んでいるママさんパパさんがおられましたら、是非お試し下さい笑


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!