244.「左善右悪」〜右は悪ではない〜


はじめに


今日は「左善右悪」について書こうと思います。

「左善右悪なんて聞いた事ない」
という方のために簡単に説明すると、
「左善右悪」、またはそれに類するお言葉は、おさしづに見られます。
その一般的な解釈は以下の通りで、

左善とは、左側半身に現れるさわりは、親神のご用があってのてびきであり、みちをせであって、右悪とは、右半身のそれは、親神のざんねん、りっぷくの現れでありいけんである、と理解することができる。
「おさしづ研究」山本久仁夫・中島秀夫 p227 

左=親神のてびき、みちをせ
右=親神のざんねん、りっぷく、いけん

知っている方はおそらく、このように理解されている方が多いのではないかと思います。

しかしこの解釈だと、
左の身上は明るく悟れますが、
右は暗い悟り方になってしまいます。

ということで、右半身に怪我や病気が出てきた時も、明るく陽気に悟ることが大事だと思いますので、今日はその事について考えていきます。


そもそも善って何?悪って何?


「左善右悪」について考える際、
そもそも天理教の「善悪」って、一般的な「善悪」と同じ意味なのか問題が発生します。

調べてみると、天理教の「善悪」と一般的な「善悪」の違いは、「改定・天理教辞典」に書いてありました。

善悪
一般に善とは一定の理法にかなう事であり、悪とはその反対である。その規準になる理法は、時代によって、また文化・社会の違いに応じて異なった形をとることが多い。
天理教の原典では、「善」と「悪」、「よき(事)」と「あしき(事)」という二通りの語が見られる。共に親神の意志にかなっているか、いないかが、究極的な規準であるが、善悪という場合には、どちらかと言えば倫理的意味合いが強い。

「親神の意志にかなっているか、いないかが、究極的な規準である」

このように書いてある通り、
善=親神様の思召に添うこと
悪=親神様の思召に添わないこと
だと言うことがわかります。

ちなみに「悪」とは、

一れつに あしきとゆうて ないけれど
一寸のほこりが ついたゆへなり 1ー53

おふでさきに書いてある通り、
「世界中に悪い人間はいない、一寸心にほこりが付いただけだ」
と言われていますので、

悪=親神様の思召に添わないこと=ほこりがついた状態

そして「善」とは、

善=親神様の思召に添うこと=陽気ぐらし

だと思われます。


<ここまでのまとめ


・あしき(悪)はない
・善=陽気ぐらし
・悪=ほこりがついた状態



「善」元のいんねん、「悪」個人のいんねん


元のいんねんとは
「人間が陽気ぐらしするのを見て共に楽しみたい」という、
「人間の生きる意味・目標」(未来)
のことで、
これが親神様の思召に添うこと「善」です。

個人のいんねんは
「心の道」
と言われ、自分の今まで(前世以前を含む)の心使いのことを指しており、
「自分の心遣いの軌跡」(過去)
のことで
これが親神様の思召に添っていない(悪)です。

以上のことから
左半身に現れる身上は「元のいんねん」
右半身に現れる身上は「個人のいんねん」
このように考えられます。


こう考えると、
「左善右悪」とは、
「心を変える方向性の違い」であり、
左半身右半身のどちらに身上が現れても、それは親神様が人間を陽気ぐらしへと導いている「親心」であることには変わりないと思います。


ぶっちゃけ、めちゃくちゃ雑に考えると

左半身の身上=心当たり無し
右半身の身上=心当たり有り(前世の行いも含む)

「左善右悪」をこう考えても、そんなに外れてないと思います。



おまけタイム


どーも!遅い夏休みをとる男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

明日から家族でお出かけするにも関わらず、noteを更新するため頑張ってます(泣)

そのため今回はかなり端折って本文を短めにしました。

説明足らずなところが多くありすみません。

しかし、

ここまでして早く寝ようとしたのに、

この後のおまけで、本当にどうでもいい事に、無駄にかなり時間をかけてしまいました。

自分の楽しくなったら止まらなくなる性分をどうにかしたいです(切実)

と言うことで「左善右悪」に関する、「本当にどうでもいいおまけ」どうぞ。


本当にどうでもいいおまけ


友人が
「左半身に怪我や病気がある人にだけ『天理教には左善右悪』って教えがあるんですよ』って言ってる」
こんな事言ってました。

こう言うとみんな喜んでくれるそうです。

僕はこれをめちゃくちゃ面白いと思いました。

何が面白いかと言うと、友人の言う通り「左善右悪」を一般的に解釈して「左は良くて右が悪い」とすれば、左半身に身上がある人に言えば喜ばれるけど、右半身に身上がある人に言ったら凹んじゃいますよね。

なので当時、右半身が身上で「左善右悪」と言われた人は、もしかしたら凹んだんじゃないかと思って調べてみることにしました。
※調べる方法は、皆んな大好き「おさしづアプリ」です。

まず、「左善」と検索すると2件ヒットしました。

その割書きがこちらです。

「増田甚七左の目障り願」明治23年6月3日

「本席十日程前より左耳の御障りに付願」明治30年8月20日

なんと2つとも左側の身上です。

なんだかワクワクしてきました。

もしかしたら、本席様も友人と同じ手法を取って、左半身に身上がある人にしか「左善右悪」を言っていなかったのではないかと思い始めてきたからです。
(捉え方によったら爆弾発言)


次に「左は善」と検索すると、またしても2件ヒットしました。


「寺田半兵衛家族の者身上に付伺」明治24年7月8日
(寺田半兵衛娘コウ十九才なる者七月三日より咳出て、腹へひびきて痛み且つ頭痛甚だしく、然るに四日に姉滝おさづけを戴き帰宅の上早速御願いせしに、直ちに頭痛は治るも他の御利益無し、又父半兵衛五日の朝右脇腹よりこくらかえりしたようにて、一時間計り身の自由叶わず、又六日右の肩詰まり頭痛致すに付、七日におぢばへ出て御話せし処、直ちに御利益戴し故右に付伺)

「増井りん身上」明治31年9月25日

なんと寺田半兵衛の家族は右側の身上で「左善右悪」に該当するお言葉を頂戴したようです。

これは、もしかしたら、かなり凹んでいたかもしれません。


最後に「左」で検索して、他に該当する者がいないか調べてみると

「本席右の背先より胸痛に付伺」明治26年10月16日

ここでも出てきました。

なんと本席様自身の身上です。

流石に本席様は凹んでないと思いますが、神が入り込んでいない間は、1人の人間だったので、もしかしたら、万が一ですが凹んでいたかもしれません。


最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

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