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206.こうして「おふでさき」は守られた!! 〜おまさの功績(裏話)〜



はじめに


「おふでさき」が消滅していたかもしれない最大の危機は、なんといっても明治16年3月24日の出来事です。

この時、おふでさきが警官に没収されるところでしたが、焼いてしまったことにして、なんとかおふでさきを守り切りました。


稿本天理教教祖伝p251~p254に詳しい内容が書いてありますので一部引用すると

(前略)
すると、蒔村署長は、鴻田の写していた本を持参したか。と、問うたので、その本は、巡回の巡査が、そのようなものは焼いて了え、と申しつけられましたから、私の不在中、留守番して居りました、伯母おまさと、飯降おさとの両人で焼いて了いました。と答えると、署長の側に居た清水巡査が立ち上がり、署長、家宅捜索に参りましょうか。と言った。眞之亮は冷やっとした。けれども、署長は、それには及ばぬ。と。
(後略)

このようにあります。

ちなみに稿本天理教教祖伝の内容は「教祖物語」を読むと分かりやすいので、これも紹介させていただきます。

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しかし、「稿本天理教教祖伝」や「教祖物語」には載っていない
「おまさ氏(教祖の長女)の人柄がおふでさきを守り抜いたお話」が、
「みちのだい11号」に載ってましたので紹介させて頂きます。


中山慶太郎氏の思い出ばなし


中山慶太郎本部員(昭和32年当時)に婦人会の文書部がインタビューを行い、そこで「私のおばんは…」という口調でおまさ氏の思い出を語られていました。

或日鴻田はんが、おふでさきを写しにきてはったのを巡査にみつけられて、そのおふでさきを持って出頭せいということになった時、おばんが焼いてしもうたことにして隠してしもたんや。何べんしらべられても「あんなものがあるから巡査が何べんも来るのやから、焼いてしもたらもう来んと思うた」というて頑張ったんで、巡査もほんまにしたらしい。日に何べんも来る警察の取り調べや、暴れこみには、門番というてもない時やから、おばんが酒呑んではよう頑張ってたんで、おばんのやんちゃは通ってたから、これでことは、すんだらしいが、もし、この時警察へ出してたら、おふでさきはそろてへんのやから、大した功労やったんや。あとで真柱様から感謝状を下はってますがなぁ。あれは明治16年3月の頃やと思うから、おふでさきはもう全部出来てましたやろ。

これを読んで、感じたことは、巡査が「おふでさきを焼いた」という証言を信用したのは、おまさ氏の人柄によるものも大きかったのではないかということです。

やはり焼いてしまった当人となっている「おまさ氏」「おさと氏」の2人は、「なんべんしらべられても」とあるように、かなり念入りに取り調べを受けたと思います。

しかし、

「おばんが酒呑んではよう頑張ってたんで、おばんのやんちゃは通ってたから、これでことは、すんだらしいが、」

とあるように、おまさ氏の日頃の豪胆さのおかげで、巡査の説得も容易になったようです。

確かに、おまさ氏は酒豪であり酒癖も凄かったという話しは、二代真柱の著書「ひとことはなし」の中にも「新建のおばやん」と題して書かれていますが、まさか警察にまで通用するとは流石だと思いました。

もしこれが、正直者と言われていた飯降伊蔵氏が焼いたことにしてしまっていたら。

「こんな真面目な者が、勝手に焼いてしまうはずがない」

という風になっていたかもしれません。(妄想です)

※「新建のおばやん」の内容はこちらで朗読を聞くことができます。


こういったお話を知る度に、当時のお屋敷の様子が鮮明になっていきますので、今後も見つけ次第どんどん記事にしていきたいと思います。


おまけタイム


どーも!毎日更新をしていた時のことが不思議でならない男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

noteの毎日更新を辞めて三週間ほど過ぎたのですが、なぜあれだけの高頻度で更新出来ていたのか謎なくらい過酷な生活をしていたことに、最近気がつきました。

特に子供が生まれてからの7ヶ月間のことを思い返すと、もう再び毎日更新には戻れない気がします。(まだ諦めてませんが)

しかし、余裕ができると何か新しいことを始めたくなる気質のためか、ラジオを新しく始めました。

しかしこうなると「ブログ」「ラジオ」「もとみち君」と更新しなくてはいけないものだけでも3つあり、なんだかもっと忙しくなったような気もしています。

どれも手を抜かずに頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。





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