見出し画像

207.何でも「神様の御用」だと思わなくて良いかも


はじめに

稿本天理教教祖伝逸話篇(以下逸話篇)の「144.天に届く理」と「197.働く手は」を、読み比べると、仕事は「神様の御用」なのか「自分の仕事」なのか、迷っちゃうかもと感じましたので、今日はそのことについて考察してみたいと思います。


神様の御用?自分の仕事?


まずは二つの逸話篇を読んで頂きたいと思います。
(読まずに飛ばして多分大丈夫です)

「144.天に届く理」
 教祖は、明治十七年三月二十四日(陰暦二月二十七日)から四月五日(陰暦三月十日)まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も十日間入牢拘禁された。その間、忠三郎は、獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて、教祖の御前にもどると、教祖は、
「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」
と、お尋ね下されたので、「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」と申し上げると、教祖の仰せ下さるには、
「そうそう、どんな辛い事や嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。」
と、お諭し下された。
「197.働く手は」
 教祖が、いつもお聞かせ下されたお話に、
「世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。
奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、筵(むしろ)でも何んでも始末せにゃならん。
蔭日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭うというようになってくる。こうなってくると何んぼでも仕事がある。
この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られぬようになる。
この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は、一人も要らん。」
と。又、ある時のお話に、
「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。」
と、お聞かせ下された。


この二つの逸話を読むと、

「144.天に届く理」では、

「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」

このように書いてあり、

「197.働く手は」では、

「奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。」

このように書いてありますから。
「144.天に届く理」を読んだ後には、
「なるほど、神様の御用だと思ってなんでもさせていただこう」
と思いますし、
「197.働く手は」を読んだ後では
「なるほど、なんでも自分の仕事だと思ってさせていただこう」
と思うのではないでしょうか。

こうなってくると、
仕事は「神様の御用」なのか「自分の仕事」なのか、
どっちが正しいのか混乱してしまいます。

「仕事は、自分の仕事で神様の御用である」
というように、二つを同時に取る考え方もありますが、僕はここで違う考え方を提示したいと思います。

※ちなみにここでいう「結構」の意味はこちらです。

結構
完成しており不足のないものや状態。よろしいこと。
【例文】
それほど見識のある人ならば結構である。四角に仕切った芝居小屋の枡みたような時間割のなかに立て籠もって、土竜のごとく働いている教師より遙かに結構である(夏目漱石 作物の批評)
出典:Weblio辞書


大切なのは「結構」という心


ここでポイントになるのは、
鴻田氏が、
「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」
に対する教祖の返事が
「そうそう、どんな辛い事や嫌なことでも、神様の御用と思うてすれば、天に届く理」
と返事されたのではなく、
「そうそう、どんな辛い事や嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理」
と返事されたことです。

つまり、どんなことでも、
「神様の御用だと思ってすること」が重要なのではなく、
「結構と思ってすること」が重要なポイントだと思います。

「神様の御用と思って勤めさせて頂く」
というのは、鴻田氏の個人的な悟りではないかと思うのです。

もし、神様の御用と思って勤める事が天に届くのであれば、
「正直めんどくさくて、やりたくありませんが、神様の御用と思って勤めさせ頂きます」
という答えであっても神様は受け取って下さるという事になります。

そんな馬鹿なことあり得ません。

ですから、「結構」だと思えるのであれば、その行為が
「神様の御用のため」でも
「会長のため」でも
「親のため」でも
「子供のため」でも
「部下のため」でも
「見ず知らずの人のため」でも
「誰のためであっても」
教祖は、
「そうそう、どんな辛い事や嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理」
と応えて下さったのではないかと思います。
(だって人間が仲良く助け合う姿を見るために、神様は人間を作ったのですから)

大切なポイントは
「何の(誰の)為にやるか」
ではなく、
「結構と思ってやれるか」
ではないかと思います。

ちなみに、わざわざ言う必要はないかもしれませんが、どれだけ結構と思っていても、その行為が犯罪で人を悲しませていたり、自分の欲を満たすためであれば、それは神様には受け取って頂けません。(当たり前ですね)

逸話篇「197.働く手は」にも
「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。」
とあるように、自分の為では無く、周りの為に働くことが肝心だと思います。

また、逸話篇「87.人が好くから」に
「人が好くから神も好くのやで」
という言葉が出てきます。
私利私欲を捨て人のために働く人は、人から好かれていきますので、神様にも好かれるんです。

このように、
ハタハタの為に働く場合も、私利私欲を捨てて人の為に働く場合も、「結構」と思ってつとめなければ神様に受け取ってもらえませんので、どんな時でも「結構」を忘れないように胸に刻み込んでいきたいです。


ついでに


時々、
「私達が信仰しているのは、親神様、教祖であって、教会長では無い」
と言われている方がいます。

ほんとその通りなんですけど、
「会長さんのために」と喜んでされている方の行為も、神様は受け取って下さるので、これも正解の一つだと思います。

つまり、この辺のことは各々の信仰の自由だから、本人が結構と思っているのであれば、わざわざ他人が口出ししなくて良いんじゃないかと思ってます。


おまけタイム


どーも!自分のラジオをずっと聞いてしまう男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

最近自分で収録したラジオを、ずっと自分で聞いちゃうんです。
「自分のラジオを自分で何度も聞くってなんやねん。」
と思う方もおられるかもしれませんが、これってラジオやってる人あるあるじゃないんかなーって思ってます。(もしかしたらYouTuberあるあるかもしれません)

僕は自分が「こんなラジオがあったら面白いな」と思っていたものを、自分でやっているので、やっぱ面白いんですよね。(自分で言うな( ´Д`)y━・~~)

自分が一番のファンなのかもしれません。(痛いやつ…)

まだ6回しか更新していませんが、最低週一以上更新していきますので、よろしければそっちもよろしくお願いします。

一応現時点で最新のやつのリンク貼っておきます。
「高う買って安く売る」と「ゲーム理論」の類似点について話していますので、気になった方は騙されたと思って聞いてみて下さい。

実際に騙されたと思った方はコメントお願いします。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!