226.教祖御在世当時の布教に学ぶ(宮森与三郎談)


はじめに


「みちのとも 大正3年1月号」に「二十年前の回顧」と題して宮森与三郎氏の思い出が掲載されています。
短い文章ですが、その中に教祖御在世当時、どのように布教していたのかが書いてありましたので紹介したいと思います。

二十年前の回顧 宮森与三郎
布教に出かけた事で思い出すのは、遠州(現在の静岡県の一部)へ行った時の事だ。明治15年の3月であった。私は御本部で米つきをしていたら、さあこれから遠州へ布教に行ってくれという事で、ござ簑(みの)に身を固めて、高井、井筒、橘の三氏と共に出立した。その時井筒氏は未だ「立ちつとめ」が充分腹へ入って居なかったから、宿屋へ着くと、毎夜おかぐら稽古をする。ある所でこれは神様に祈祷するおかぐらだと言ったから、次の間からしきりにお賽銭を投げられて困った。かくて井筒氏は遠州へ辿りつくまでに全部稽古が出来てしまった。
先方に三十日程滞在している間に九十何戸の信者が出来たから、それを講社帳に載せて持って帰ったが、当時は実に速やかに開けたものである。
当時は布教といっても、今日のように詳しく教理が説ける訳ではない。百姓でも養蚕でも、何でもかでも先方の仕事の手伝いをしてやって、仕事の隙を見ては神様の御話をする。病人のお助けをするそれでも不思議に講社は増えた。
(※現代仮名遣いに直してます)


なぜ教理が詳しく説けなかったのか?


当時は布教といっても、今日のように詳しく教理が説ける訳ではない。

以上のように本文に書いてありましたので、当時、詳しく教理が説けない理由は何だったのか考えてみたところ、4つ候補を思いつきました。

1.教理が整っていなかったから
2.天理教への迫害が酷かったから

3.生活費を稼ぐので忙しかったから
4.昼間は人が家に居なかったから


早速この4つについて考えてみたいと思います。


1.教理が整っていなかったから
明治15年と言えば、ちょうど「おふでさき」が完成した時期です。
また「こふき」の山澤本(14年本)が既に書かれた後だということを考えると、教祖から直接お話を聞かせて頂いていた先人が、教理が整っていないから教えを説けなかったということは想像出来ません。

そもそも現代の僕達からすれば、明治教典を掲げ、おふでさきも公式には燃やしてしまった事になっていた大正初期に比べ、明治15年頃の方がより純粋な教えを説くことができたように思います。

しかし、思い出を語った宮森氏の心境を考えると、天理教が一派独立をするために教理を整えてきたという思いがあった思いますし、「布教」に対する思いも、明治15年と大正3年では全然違ったと思います。

そういった事から、宮森氏が「明治15年頃は教理が整ってなかった」と思っていた可能性は十分考えられます。


2.天理教への迫害が酷かったから
天理教が初めて批判的に新聞に取り上げられたのは、明治15年に起こった「我孫子事件」です。
この事件をきっかけに、天理教の名前は広く世間へ広がっていくことになりますが、この「我孫子事件」が「大阪朝日新聞」に掲載されたのは、明治15年9月30日です。
遠州に布教に出向いたのが明治15年3月頃ということですので、奈良より遠く離れた遠州の地で、天理教が迫害されていたことは考えにくいと思います。


3.生活費を稼ぐので忙しかったから
文章の続きを読んでみると、

百姓でも養蚕でも、何でもかでも先方の仕事の手伝いをしてやって、仕事の隙を見ては神様の御話をする。病人のお助けをするそれでも不思議に講社は増えた。

このように、仕事をしていたことが書かれています。
ですから、布教地での生活費を稼ぐために仕事をしていたから、詳しく教理を説く暇がなかったのではないかと考えられます。


4.昼間は人が家に居なかったから

単純に、日中は皆んな仕事に出ていて家に人がいなかったかもしれません。
だから仕事をしている人に話を聞いてもらうために仕事を手伝い、休憩時間等の隙間時間を狙って神様の話をしていたことが考えられます。
これだとあまり時間が取れないので、教理を詳しく説くことはできません。


「不思議に」に込められた意味


しかし、宮森氏は仕事をしながら布教することがベストだとは、考えていなかったのではないでしょうか。

その思いが「不思議に」という一言に込められていると思いました。

「不思議に講社は増えた」に込められた意味を僕なりに解釈すると、

「本来は仕事などせずに「神様のお話をすること」と「病人のお助けをすること」に集中すべきところを、布教地での生活費を稼ぐ為に仕事をし、その隙間の時間に神様の御用をしていた。そんな状況であるにも関わらず、不思議にも講社は増えた」
もしくは、
「教理を詳しく説けなかったのに、不思議にも講社は増えた」

このような意味が込められたいるんじゃないかと思います。

この「みちのとも」が発刊された当時は、自分の生活を省みずに布教をしている布教師が沢山いました。

それが信仰者の理想であり、そのようにするからこそ御守護が頂けるという実感があった上での発言だったのかもしれません。

そういった
「布教に対する思い」(心)
「お助けにかけた時間」(行い)
「教理」(言葉)
こういったものが全て現在(大正3年頃)より劣っていた(と思っている)明治15年頃でも不思議に講社ができてきた事を、宮森氏は思い出して語っていたのかもしれません。


信仰者が働く上での参考になるかも


現代において、自分の生活を度外視してお助けに励む布教師は、一握りの人しか出来ないストロングスタイルだと思います。

ほとんどの人は自分で生活費を稼がなくてはいけないわけで、その際、宮森氏のお話はとても参考になると思いました。

大切なのは「仕事をする目的」を明確にしておくことだと思います。

宮森氏等一行は、教祖から教えていただき、素晴らしいと感じた教理を、1人でも多くの人に知って貰いたいという思いで遠州に出向きました。

その道中仕事の手伝いをしていましたが、その目的はお金を稼ぐためではありません。

現代を生きる信仰者も、
お金を稼ぐことを仕事をする1番の目的にしない方が良いと思うんです。

職場によれば、布教活動を禁止されている職場もあるかと思います。

先人のように仕事の隙間時間に神様の話をするのは、難しい場合がほとんどかもしれません。

しかし、仕事に打ち込むあなたの姿に同僚は触れるわけです。

あなたが信仰を言葉や行いで体現していれば、あなたの姿を通して、側の人は信仰に触れる事になります。

人間の生きる目的は「人々が仲良く支え合い助け合って生きていく世界の実現」です。

この目的達成のために仕事に打ち込むことが、信仰者として仕事へ向き合うことではないでしようか。

具体的にどうすれば良いかと言えば、教祖は
「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、ハタラクと言うのや」
「どんな辛い事や嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様が受け取り下さる理は、結構に変えて下さる」

このように言われています。

この教祖から教えていただいたことを、仕事の中で実行すれば間違いありません。


最後に補足


こういったことを、働く若い世代が分かっておくことは大切だと思うのですが、親世代が分かっておくことは、それ以上に大切だと思います。

やはり、普通に働くことを良しとしない考え方は根強くあると思います。

このように考えてしまうのは「仕事をしながら信仰すること」が、片手間で信仰しているようで、良く思えないのではないかと個人的に思ってます。

でもこれは前提が間違いで、
「仕事をしながら信仰する」
ではなく、
「信仰者として仕事をする」
「信仰者として世間に貢献する」
このように考えていけば、気持ちよく送り出せるんじゃないかと思います。

個人的には、
「仕事をしながら信仰するのではなく、信仰者として仕事をするように」
と、教会長や親から全若者に向けて言って欲しいと思ってます。


おまけタイム


どーも!おまけタイムを書かなさ過ぎて書き方を忘れた男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

週一更新になり、おまけタイムを書く機会がすっかり減ったせいで、おまけタイムの書き方をすっかり忘れてしまいました。

もう深夜1時を回っているのに、おまけタイムが書けずにずっと悩んでいるので、その気持ちを書いている次第です。



最近ハマってることでも書こうかと思います。

最近は子供と一緒に教育テレビを見る事にハマっているのですが、教育テレビは大人が見てもめちゃくちゃ面白いです。

個人的には
「みいつけた」
「おかあさんといっしょ」
「はなかっぱ」
「キッチン戦隊クックルン」
「ムジカピッコリーノ」

は出来れば見逃したくない域に達しています。

嫁さんからは、そこまで本気で楽しんている事を気持ち悪がられていますが、面白いから仕方ありません。

そんな大変面白い教育テレビですが、今月は年度末という事で多くの番組が最終回を迎えつつあり、ノスタルジックな気持ちになってます。

子供は小さく、嫁には気持ち悪がられているため、教育テレビでノスタルジックな気持ちになっていることを共有できる同士を探しています。

もし、そんな方がいましたら、その熱い思いをコメント欄に書いて下さい。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!








サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!