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僕と、渚園。

静岡への一人旅。

麻雀で知り合った静岡の強豪、いとうメルさん。
そして、麻雀界に恐らく革命をもたらすであろうスーパーシステムエンジニアのマツキヨさんのお二人とのご縁をいただいて、静岡へ遊びに行ってきました。

2年ぶりの一人旅。
スポット参戦させていただく帝静戦以外の予定はほとんどノープランだったのですが、お二人に案内していただいて浜松の素晴らしいところを巡らせていただきました。

で、その旅行記を書こうと思って何度もパソコンに向かったのですが。
いつものように言葉が出てこないのです。
いや、正確には書いては消して、消しては書いて、また消して。
その繰り返しで全く文章が進みません。

何故なんだろう?

自分の精神状態を見つめ直しながら、その原因を探っていました。

そうしたら、やはり、というか、目を背けていたかったことが一つあって。

まずは、そのことを書いて吐き出してしまわないと、何にも始まらないなと思いました。

浜松の素晴らしいところや、そこで必死に麻雀に食らいつく同志の姿を書きだしていくために。
個人的なことですが、まずは書いてみようかな、と。

思い出を辿る。

私は、高校時代にこっそりバンド活動をしていました。

昔から大好きだったサザンオールスターズのコピーと、ビートルズのコピーをやりながら、何曲か自分たちでも曲を作って、音楽を楽しんでいました。

私の世代は、サザンオールスターズが横浜アリーナで年越しライブを毎年行っていた時代。TBSが何年かそのライブを中継して、それを観ながら年を越すのが年末恒例の行事でした。

バンドを始めたのは、私が「やろうぜ!」と友人たちに声をかけたのがきっかけでした。

しかし、声をかけたものの、あまり裕福ではなかった我が家。
部活でラグビーをやっていた私は、部活の経費以上に親へ金をせびることが出来ませんでした。実際、学校へもバス通学ではなく、数十分かけて長くてキツイ坂道を歩いて通っていましたから、まさかギターを買うから金をくれとは口が裂けても言えませんでした。

そんな事情は知らない友人たちは、
「言い出しっぺのお前は何にも弾かないのか。」
とあきれ顔でしたが、せめて自分の小遣いで買えるブルースハープを2本買って、
「俺は歌うから、後は頼むよ。」
とごまかし、バンドを結成しました。

幸い、友人の中に実家が楽器屋をやっている奴がいたこともあって、練習するスタジオを安く貸してもらったり、消耗品を安く分けてもらったり、ライブのチケットを扱ってもらったりと至れり尽くせりで、非常に充実した時間を過ごさせてもらっていました。

そして高校卒業の時。
私以外のメンバーは北海道から出ていくということになりました。

「北海道に戻ってきたら、またやろうよ。」

互いにそう声を掛け合って、年末や夏休みの帰省時に集まっては音楽を楽しんでいました。

私たちが二十歳の年。
サザンオールスターズが、静岡県浜松市にある「渚園」という運動公園で大きなライブをやることが決まりました。
ライブは8月の8日と9日。夏休みが取りやすい頃でした。

「みんなで行こうよ。ライブも数万人が入れる規模だし、2日間あるから、チケット取れるでしょ?」

私たちは一度東京に集まって前夜祭をやって、翌日に新幹線で移動してライブを楽しみ、浜松に宿泊して東京に帰って来る予定を組んでいました。

突然の別れ、そして。

当時はあまりインターネットが普及していない時代。
私はもっぱらyahooのゲームでバックギャモンを楽しむのが日課になっていましたが、世の中的には「ニフティサーブ」を使って「ポストペット」が出来る程度。
様々な情報がリアルタイムで広がっていく時代ではなかったんですね。

ある日、いつものように仕事から帰宅し、ポストペットを立ち上げると、キャラクターがメールを運んできました。

「仕事場に連絡したけど連絡がつかなかったからメールで。青森にいるユースケが亡くなった。」

東京にいるドラムのコージからでした。
すぐにコージへ電話をすると、青森にいるキーボードを弾いてくれていたユースケが亡くなったというのですが、詳しいことはわからない、と。

居ても立っても居られない私たちは、翌日に青森に集まりました。

ユースケが一人暮らしをしていた青森には、すでにご両親が駆けつけていました。
警察の話によると、バイクに乗っていたユースケは信号無視をしてきた自動車に突っ込み、そのまま亡くなったとのこと。
顔のキズがひどかったらしく、ご両親の意向で棺に横たわる彼の顔は見られませんでしたが、祭壇には彼の在りし日の写真が飾られています。

それからはあっという間でした。

ユースケの大学の友人たちがたくさん訪れた葬儀はまるで流れ作業のように淡々と行われ、彼の遺体は荼毘に付されました。

私は彼の遺骨を拾っている間も、

「これは違う誰かの葬式をしているのではないか?」

と信じられない心持ちで、大事な友人が亡くなったのに涙の一つも出なかったのを覚えています。

彼の死を受け止めきれないまま葬儀は終わり、私たちはそれぞれ青森を離れました。

数日たって。

「なぁ、渚園、どうする?」

東京のコージから電話がありました。

「ユースケ、行きたがってたよな。もちろん、俺たちもだけど。」

コージの言葉に、私は返事が出来ませんでした。

「おい、千嶋。聞いてんのか?明日チケットの発売日なんだぞ?」

コージの声に、私は一言だけ。

『いや、いいや。俺は行かないよ。』

そう言って、私は電話を切りました。
ユースケの急逝から目を背けたかったのでしょう。
私はコージや他のメンバーとも、それっきりしばらく没交渉になってしまいました。

彼を想う。

その年の12月。
渚園でのライブがビデオに収録されて発売されました。
私は相変わらずそのライブのことは目に入らないように気を付けていました。

しかし。
東京のコージが私にライブのビデオを送って寄こしたのです。
小包にはビデオテープと手紙。
1枚の便せんには一言だけ。

「観ろよ。桑田さん、格好よかったぞ。」

私はそのビデオを自室の机の上において、数日の間眺めていました。
いや、観られなかったという方が正しいのかもしれません。

重い腰を上げたのは、コージからの電話でした。

「お前、まさかまだ観てないのか?」

私からの感想を催促するような電話だったのですが、あまりに気のない私の返事にコージが業を煮やして、

「ユースケ、このライブ観たかったんだってよ。親御さんがユースケの部屋を整理していたら、新幹線の時間を調べていたメモが出てきたって。どこで飯を食うとか、どこに泊まるとか…お前の飛行機の時間まで調べていたんだってよ。」

「そんなユースケが行きたがってたライブ、お前も一緒に観てやるのがユースケの供養なんじゃないのか?」

私は相変わらず言葉が出てこないままでしたが、目からは大粒の涙が流れて止まりませんでした。

『わかった。観るよ。』

言葉少なに電話を切った私は、意を決してビデオを再生しました。


あぁ、やっぱり行きたかったな。楽しかっただろうな。

ライブは素晴らしいものでした。

画面に映る観客の笑顔を見ながら、はらはらと流れる涙。
心の整理にはずいぶん時間がかかってしまいましたが、ユースケが亡くなったことをようやく受け入れられた気がしました。

私は窓越しに空を見上げて、あまりに早く旅立ってしまった友人のことを思いました。
深々と、音もなく雪だけが降りてくる夜でした。


あれから24年。
私はライブが行われた渚園に立っていました。


浜名湖の湖畔に立つ木々の影。
会場となった広場の様子は、あの日の面影を十分に残しています。

ユースケやコージたちとの楽しかった日々のことが一気に思い出されて、いまさらながら惜別の情がこみ上げてきます。

連れてきていただいたお二人の手前、涙を流すわけにはいきません。
私は必死にその想いと戦いながら、胸いっぱいに渚園の空気を吸い込みました。

小樽へ帰ってきた後。
数年ぶりにコージに電話をしてみました。
彼は、今も東京で必死に戦っています。

『こないだ、ようやく渚園へ行ってきたよ。』

私の言葉にコージは、

「遅せぇよ。何年青春しているつもりだよ、バカ。」

と吐き捨てるように言いました。

でも。

「居たか?居たろ?渚園にユースケ。」

この言葉はねぇ。
ちょっとだけしんどいぞ、コージ。

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