療養所
結構前の話になるのだが。
6年前の6月。
私の祖母が他界した。享年95歳だった。
祖母は祖父と共に土建屋を切り盛りしていた。
小樽の港湾がまだ活気に溢れていた昭和の時代から屈強な男たちを小突き回し、その甲高い声は町内でも有名だったという。
石炭の積出港として日本中から大事にされてきた小樽であったが、やがて石油がエネルギーの中心となり、道内の炭鉱が閉山する頃には斜陽化に歯止めが利かなくなっていた。
閉塞感が街全体を覆うと、家業もどんどん貧しくなっていったそうだ。
私が生まれた頃にはかつての栄華はそこにはなく、祖父母の家は決して裕福な佇まいでは無かった。
「金はねぇぞ。」
小学校に上がるか上がらないかくらいの私が祖父母のところに遊びに行くと、祖父は口癖のように私にこう言った。
当時は何と思うことはなかったが、今思えば、孫に小遣いの一つもやれることが無い祖父のコンプレックスが言わせた言葉だったのかもしれない。
「いつもいつもそんなことを孫に言わなくていいんだよ、あんた。それより辰治、何にもないけど、お腹減ってないかい?ラーメンでもおあがりよ。」
祖母はそんな風に祖父を制すると、いつもインスタントラーメンを作ってくれた。
マルちゃんの醤油ラーメン。
もやしやネギはおろか、卵も入っていない、具なしのラーメン。
ただ、祖母の作る「素ラーメン」は絶品だった。
あまりのおいしさに、息つく間もなくラーメンに貪りつく私の様子を観て、
「ちょっと、辰治に何にも食べさせてないのかい?」
と、祖母は母に度々電話で小言を投げていたらしい。
そんな祖父母も、多分に漏れず歳を取った。
祖父は80歳を過ぎた頃から認知症が進み、長年連れ添った祖母のことすらわからなくなった。
祖母はそれでも祖父の介護を必死に行っていたが、自身も体調を崩しがちになって、やがて母に助けを求めるようになった。
私たちは祖父が入院できる終末期の病院を探した。
祖母は、祖父が楽になれるならと入院に賛成してくれた。
すると間もなく。
今度は日々の介護から解放されたからなのか祖母が認知症になり、一人での生活が難しくなっていった。
祖母の家へ毎日のように様子を観に行っていた母だったが、さすがに面倒を見切れなくなってしまい、今度は祖母のための病院を探した。
まるで石ころが坂道を転がり落ちていくように、日に日に祖母の記憶は混濁していった。
ただその中で、ある日祖母が母に言ったそうだ。
「爺さんのいる病院にだけは入れないでおくれ。私ゃ、爺さんが弱っている姿を観たくないんだよ。」
薄れゆく自我の中、祖母は唯一にして最後の望みを母に託した。
「お義父さんと一緒じゃなくていいの?寂しくない?」
母は祖母に何度も聞いたそうだが、それっきり、祖母はまともに返事が出来なかったらしい。
それから。
祖父はいつからかベッドで寝たきりになったが、それでも何年も頑張って命の灯火を燃やし続けた。
94歳の1月のある日。
この時期にしては珍しく暖かい日で、雨交じりの湿った雪が降った日だった。
母から私の職場へ連絡があり、祖父が危篤になったと知らせてきた。
急いで向かうと祖父の心臓はすでに止まっていて、死戦期の呼吸がわずかに残るばかりだった。
今まさに大往生を遂げんとする今際の際で、父が泣きながら祖父の手を握りしめている。
父は父で、日々死に向かう祖父の姿を観ることが出来ず、中々病院へ見舞いに行かなかった。
去来する後悔の念が父を襲った。
「我が家は金がない。死にゆく人間よりも、生きている人間の方が大事だ。だから、俺の葬式はするな。付き合いは面倒だから誰にも知らせるな。」
「我が家は無宗教だ。枕経もいらん。墓も骨堂もみんないらん。骨なんぞ、海でもどこでも撒いておけ。」
祖父が看護師さんの手によって遺体としての処置を受けているのを眺めながら、父は私に祖父の言葉をつぶやいていた。
祖父の言いつけ通り、祖父が亡くなったことは誰にも知らせず、父の兄弟と私の兄弟だけでひっそりと見送った。
ただ、さすがに…と、葬儀屋のつての僧侶に枕経だけは上げてもらったが、祖父のことだ、余計なことをしやがってと父に小言の一つも投げてよこしたことだろう。
「婆さんには爺さんが亡くなったこと、知らせるかなぁ。どうしようか。」
祖父を見送った火葬場で、父はぽつりと私につぶやいた。
すると、週に1度のペースで祖母の様子を観に行っていた母が口を開く。
「もうね、知らせようがないほど認知症が進んでいるの。だから、知らせなくてよいと思う。それよりもね、辛いかもしれないけれど、あなたも辰治も、お義母さんの顔、見に行ってあげなさいよ。」
そうだな、そうだよな。
そう呟きながら、顔をくしゃくしゃにして涙を流す父。
それから父は、母と共に定期的に祖母の顔を見に行くようになった。
祖母は祖父が亡くなったすぐ後に、設備の整った病院から実家の近所の古い病院へ転院することになった。
実家のあるところから祖母の病院まではかなり距離があり、車が運転できない両親が祖母を見舞うのが大変になってきたのが原因だった。
祖母が転院した病院は私の母校の近く。
我がラグビー部のグラウンドの真下にある古い病院だった。
かつては「サナトリウム」として利用されていた病院で、結核患者を隔離するためのつくりの病棟がそのまま利活用されていた。
それまで億劫がって祖母の見舞いに行かなかった私だったが、母が
「お義母さん、最近呼吸が浅くなってきているみたい。辰治も世話になったのだから、顔を観に行きなさいよ。」
と促され、とうとう重たい腰を上げた。
母によると、たくさんの終末期の患者を受け入れている病院で、ベッドの空きはほぼないと聞かされていた。
しかし、1階の受付を過ぎて病棟へ向かうも、聞こえるのは看護師さんの声と足音だけで、シンと静まり返っていた。
詰め所で祖母の病室の場所を聴くと、忙しいにもかかわらず、わざわざ病室まで看護師さんが案内してくれた。
「こちらの病院、たくさんの患者さんがいらっしゃるって伺いましたが、随分静かなんですね。」
私が看護師さんに話すと、寂しそうに私に言った。
「何百人の患者さんがいらっしゃるんですが、皆さん寝たきりなんです。お見舞いにいらっしゃるご家族は中々いない方が多くて…。」
中々見舞いに来なかった私に対する当てつけではなかったのだろう。
ただ、日々患者のために尽くす看護師さんとしたら、我々家族のことを冷ややかに感じているのは仕方のないことだとは思った。
「千嶋さん、お孫さんが来てくれましたよ。」
開けっ放しのドアをノックしながら、看護師さんが祖母に言った。
何年かぶりに会う祖母に在りし日の面影はなく、祖母はただ痩せて、何かに疲れたようにベッドに横たわっていた。
「たまにお返事してくれることもあるんですけどね。段々と力がなくなってきているのは確かなようです。」
深々と私に礼をしてくれた看護師さんは、私の礼を待たずにどこかへ走り去っていった。
ベッドの横に置いてあった丸椅子に座り、点滴が繋がった右手をさすりながら私は祖母に話しかけていた。
「ばあちゃん、もう俺のことはわかんないんだろうね。」
呼吸器の中で祖母の口が動くことを期待していたが、祖母は眠ったままだ。
祖母の手をさすりながら、いつの間にか私は祖母に謝っていた。
小さい頃、あんなにおいしいラーメンを食べさせてもらったのに。
親が共働きで不在の時に、いつも面倒を見てくれたのに。
町内のお祭りの時には私の手を引いて夜店をたくさん巡ってくれたのに。
いっぱい、世話になったのに。
日々の生活に追われてという言い訳で、薄情にもほどがあるよね。
そんな、涙をぽろぽろと流す私の言葉にも、悲しいかな祖母は何か反応をしてくれるわけではなく、ただ眠ったままだった。
こみ上げてくる涙がひとしきり収まったところで、私は病室を後にした。
すると、後ろからパタパタと駆けてくる音が聞こえる。
さっきの看護師さんだった。
「あの…気を悪くしないで欲しいのですが。」
看護師さんが差し出したのは、1枚の紙だった。
「おばあちゃんの手、温かかったでしょう?必死に生きようとしているんですよ。返事はなくっても。元通りに元気にはならないって私もわかっているんですけど、命が尽きるその瞬間まで、患者さんは頑張っているので、私たちも必死に頑張ってます。」
「もしよかったら、この曲、探して聞いてみてください。きっと、わかってくれると思うので。」
先ほどと同じように、私の礼を待たずに看護師さんは振り返って駆けていった。
手渡された紙には、「療養所」というタイトル。
作者の名前にはさだまさしとあった。
楽曲は、主人公である「僕」が入院した際に出会った「おばあさん」について描かれていた。
帰りにCDショップへ走り、この楽曲が収録されているものを店員さんに探してもらい、車の中で聴いていた。
最愛の伴侶の記憶が少しずつ消えていく。
必死に祖父に声をかけるも、妻のことを忘れてしまった祖父。
言い尽くせない悲しみの中、それでも必死に世話を続けた祖母の姿。
やがて、自らも老いに足をからめとられ、自由にならない日々を、どんな思いで過ごしただろうか。
祖母のことを想いながら、何度も繰り返しこの楽曲を聴いた。
もうあの頃の祖母が戻ってこないのだという現実を改めて目の当たりにして、無力で薄情な自分を心から恥ずかしく思った。
それからは両親を連れて見舞いに通ったが、ついにその時は訪れた。
ある日の早朝に母から危篤になったと電話があった。
実家に向かい、両親を連れて病院へ駆けつけると、主治医が祖母の手を取っていた。
「手は尽くしました。十分に頑張られたと思います。」
主治医は私たちにこう告げると、やがて、95年に渡って脈を刻み続けた心臓が静かに止まり、祖母は眠りについた。
処置が終わり、葬儀社が祖母を迎えに来る頃、あの看護師さんが私のところへやってきた。
うっすらと涙を浮かべた看護師さんは私にこう言った。
「千嶋さん、本当によく頑張りました。ご遺族は悲しいかもしれないけれど、ベッドの上で必死に生きようとなさってました。しっかり、見送って差し上げてください。」
それと…。
と、看護師さんが続ける。
「療養所、きっと聴いていただけたんですよね?」
もちろん、と告げると、ほっとしたような表情で私に言った。
「千嶋さん、たくさんお見舞いに来ていただけて、お幸せだったと思います。」
看護師さんは病院の外まで祖母を見送ってくれた。
そして、祖母を乗せた車が見えなくなるまで、看護師さんは頭を下げてくれていた。
毎年初夏の頃になると、祖母のことを思い出しながら「療養所」を一人、聴いている。
6年経った今でも、もっと何かできたのではないかと後悔の念は尽きない。
そして、やがて来る両親との別れを想うと、陰鬱な気持ちになってしまう。
「辰治、お腹すいてないかい?そんな顔してないで、ラーメンでもおあがりよ。」
その度に、どこかから甲高い声が聞こえてくるのだ。
この声に心を揺らしてもらいながら、今日も必死で生きてみようとこの季節を過ごしている。
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