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観光客が行かない厚岸(あっけし)巡り


厚岸町


  観光客が行かない「厚岸町」の旅  
                    
人口9,048人 (2021年1月31日)       

国泰寺

厚岸町の湖南といわれる地区には、蝦夷時代に松前藩の「アッケシ場所」がありアイヌの人たちとの交易の場所として大変栄えていました。
ところが、18世紀末に江戸から最上徳内や近藤重蔵、高田屋嘉兵衛など多くの役人や商人が出入りするようになります。国泰寺はロシアの南下など北辺の危機が叫ばれる中で文化元年(1804年)に建立されました。
臨済宗南禅寺派の仏教寺院で、蝦夷地における特異な歴史的役割を果たした重要な寺で、裏山の愛冠岬を含む13万平米が国の史跡に指定されています。

国泰寺の境内には鹿を良く見かけます。
寺の入口にある厚岸町郷土館の方に聞くと、雨の後はバラサンから下りてくると話していました。
バラサンとは、裏手にバラサン岬がありアイヌ語で『広い柵』『野獣を取る平落としという罠』のことでもあると言われています。この岬の岩層が平落としに似ていたため、厚岸の部落には魔物が近寄らなかったとの伝説もあります。

国泰寺には三度訪れたことがあります。寺の前に郷土資料館には寛政時代に訪れた幕臣の記録なども保存されているのです。
お寺を出て石段を上がると厚岸神社があり、境内には近藤重蔵の碑文や歴史上の事実がしるされています。
 
 <厚岸大橋>


道の駅厚岸グルメパークから

牡蠣三昧で人気の「道の駅厚岸グルメパーク」は高台の国道44号の近くにあります。この道の駅から、対岸に大きな突き出た島のような陸が見え、この島を結ぶ赤い「厚岸大橋」で繋がっています。
この対岸を湖南地区といい、道の駅のある手前を湖北地区と呼んでいます。この二つの地区を結ぶ長さ456.5mの厚岸大橋は、北海道で最初の海上橋として昭和47年9月に開通しました。
この橋ができるまではフェリーボートで、それ以前は、渡船で人や自動車などを輸送していたといいます。
対岸の島は、陸続きなのですが厚岸湖を一周することになるので島でしかありませんでした。この橋を架けることが厚岸の人々の「夢」でもありました。

「クルマ社会」となりましたが国道44号で根室に向かう前に、この厚岸大橋を渡ってみることです。根室にはこちらから浜中町を通って向かうことができます。
国泰寺や資料館など歴史を知るだけでなく、厚岸観光十景は道道123号にあるのです。
 
JR厚岸駅

厚岸駅


国道44号と並行するようにJR根室本線(釧路からは通称花咲線)が通っています。厚岸町に入ってくると花咲線は海岸線となり高台を走る国道と別れます。それが一目瞭然となるのがJR厚岸駅です。

「道の駅厚岸グルメパーク」は高台の国道44号ですが、JR厚岸駅は国道から厚岸湾に向かって下って行かなければなりません。
駅前は商店街で、かつては大勢の人が降りた駅だったことが良くわかります。車社会となり、このような街の風景は全国で見ることができます。
2009年公開の「釣りバカ日誌20 ファイナル」は厚岸が使われています。おそらく、ハマちゃんたち撮影隊はこの商店街の宿で毎日牡蠣を食べたのでしょう。

牡蠣定食

太田屯田兵村


青円が太田屯田村の地区


北海道
には37の屯田兵村がありました。
厚岸町の太田兵村は明治23年に入植した士族最後の兵村となります。
太田とは人の名前です。兵村名に個人の名が冠されたのは永山、和田、太田の3ヶ所だけです。それだけ太田という人は重要な人物でした。

太田紋助といいます。父親が厚岸場所で番人の仕事をしていた中西紋太郎、母親がシャリコトム(日本姓を太田)の間に1846年に出生。
8歳で父を失くし国泰寺にあずけられます。お寺で雑用係として働きながら学問と教養を学びさらに農業技術も習得する少年でした。明治4年に戸籍法の制定により母方の姓に改め、名も紋助とします。
厚岸の開拓に多大な貢献をしただけでなく、アイヌ民族の指導者としてアイヌの生活向上にも尽力しましたが、函館出張中に47歳の若さで急死しました。

昨年の夏に太田屯田に行ってきました。
厚岸町に入植した屯田兵は、他の地域に入植した人たちと違いがありました。それは、元々厚岸という地域は蝦夷の時代からアイヌ民族の集落があり、寛政時代には江戸から多くの人達が駆けつけた所でもあります。
他の地に入植した屯田兵は、まったくの原始林にはじめて入り街を拓いていった所です。漁師の町として繁栄していた町から離れて、原始林に入り拓いた440戸、約1700人の人達です。
太田屯田開拓記念館で第四世代にあたる方にお話しを聞くと、太田地区と海岸の厚岸地区の人達とは見えない距離があったと話していました。

当時を伝える兵屋

太田屯田では往時の場所に復元して保存されています。
太田2の通り(2番道路)の松本秀男氏の敷地内に昭和46年(1971)に復元されました。太田屯田兵屋は、明治22年1月から翌年5月にかけて釧路集治監(標茶町)の囚人によって建てられた「裏返し型」と呼ばれる兵屋です。
「裏返し型」とは、道路を挟んで兵屋を配置する場合、一方の兵屋の入口が道路から遠い位置になるため考えられたものです。この形をとられたところには、他に秩父別、湧別、旭川があります。


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