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観光客が行かない猿払(さるふつ)巡り・後篇

猿払村


貧乏見たけりゃ猿払へ行きな・・・・・

昭和22年、終戦後の引揚者入植により内陸地の開拓がすすみました。
産業は炭鉱、林業(王子製紙)、酪農が中心でしたが、昭和29年にニシン水揚が激減。沖合のホタテ漁も乱獲により衰退し、漁民の多くが経済的困窮により離村を余儀なくされました。

昭和38年~42年にかけて炭鉱が閉山、炭鉱で働く人たちが村を去り、林業も衰退。この当時「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどの有り様でした。

万博景気の昭和45年 <賭け>

昭和45年、猿払漁業組合長はホタテの最高権威とうたわれた稚内の水産試験場長に「稚貝をまくなら大量に」という助言をうけます。
そうして一大決心をしました。
僅かな稚貝を広い浜に向けて放流するやり方ではなく、大量の稚貝を、区域を絞って放流する方法に変えていこうと考えたのです。北海道信用漁業連合からの多額な融資を受けない限り、夢のまた夢。
頭を下げて一年後、ようやく事態は進展。
漁場総面積を4区画に分け、1年目は1区画に稚貝を放流。そして年毎に隣の区画への放流を続けていき、4年目になって初めて1区画目のホタテの水揚げを行います。総事業費は4億6千万円。

昭和46年 年明け協議会 

年明け早々の協議会。
「稚貝の確保、漁場の整備、労力に船。組合員全員、一丸となって頑張ろう。ヒトデ駆除にかかる船と油代だけは、組合から何とか工面しよう」すると、組合員から声があがりました。

「出面賃はいくら出る」「弁当代はなんぼくれるんだ」。


組合長は、怒りと悲しみで「人をあてにして、上げ膳、据え膳で飯を喰おうというのなら、もういい。
こんな仕事は辞めたほうがいい」誰もが言葉を失いました。
ようやく口火を切ったのは年配の組合員で「組合長の言うとおりだ。
出面賃も弁当代もいらん」
組合員の気持ちが一つに結ばれました。

昭和49年11月 初水揚げ

初水揚げの日を迎えます。(放流した年の調査では稚貝の生存率は7%でした)いざ予定の海面に下した網を引き揚げますがホタテの姿はありません。
すこしずつ海面をずらして行くと確かな手ごたえがあり、びっしりとホタテが詰まっていました。
昭和46年に放流した1400万粒の稚貝は、1700トンもの実りを浜にもたらしたのです。


さるふつのはじまり

1882年(明治22年)藤山要吉が入地し漁業を営み、明治24年頃から内灘漁民が入漁していたとされています。
大正期に入ると資源保護の立場から禁漁案が起こり、漁民との間で確執が生まれました。
昭和10年に石川県漁民の禁漁が実施され、稚内漁業組合名義で着漁するという事態も起きています。
やがて資源枯渇が進み、昭和39年以降全面禁漁となり、昭和46年から稚貝の放流を行うことになります。

1900年(明治33年)、苗太呂知来別原野に植民区画が設定され入植者が入り、大正9年には米の試作も行われましたが、寒冷地のため適さず、ジャガイモ栽培の奨励を行っています。

戦後は酪農が本格化  乳牛感謝の碑


乳牛感謝の碑


戦時中には浅茅野第二飛行場だった地が払い下げられ、村営牧場となり酪農が進展しました。
昭和44年に「乳牛感謝の碑」が立てられており、酪農主体の農業は乳牛を主に肉牛も猿払ビーフとしても出荷しています。
明治24年、道庁の技師石川が炭田を発見。
昭和2年に宗谷無煙炭鉱として操業し、他に和平炭鉱等も稼働。ピーク時には人口1万人近くまで増加しましたが、いずれも閉山しています。

インディギルカ号の座礁 (インディギルカ号座礁の碑)

インディギルカ号座礁の碑


昭和14年、猿払の沖合で旧ソ連船インディギルカ号が吹雪の中座礁。
村民総出の救助にもかかわらず700人以上の犠牲者を出す惨事となりました。
さるふつ公園に慰霊碑が立てられています。



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