北海道ゆかりの人たち 川田 龍吉
安政3年3月14日(1856年4月18日)~昭和26年2月9日
日本の実業家
男爵
「男爵イモ」の生みの親
道南いさりび鉄道(旧江差線)渡島当別駅の近くに「男爵資料館」がありました。12年ほど前に訪ねたことがあります。この資料館は個人で運営されているので資金が詰まれば閉館になるだろうと思っていました。
その後、2014年3月より無期限の「休業」になっていました。
今年、道南を回った時に「七飯町」の道の駅隣に移設されていました。
しかし、規模が違いますから渡島当別からの遺品や資料などは限られていると思います。私は時間がなかったので入館しませんでした。
当時、館内の写真をたくさん撮っておいて良かったと思いました。
川田龍吉は土佐藩出身なので、浦臼町の坂本龍馬と共に北海道に残された貴重な資料がたくさんあったのです。
函館の市民は昔から、青森、秋田の農家が海を渡って運び込む米を買って食べていました。しかし、三年に一度ぐらいは冷害凶作となり米が高騰します。
そのために代用食として馬鈴薯がありました。イモは年に二度収穫できるので「ニドイモ」、一株で五升もとれるので「ゴショイモ」といっていましたが「ジャガイモ」が一般的でした。
これはジャガタライモの略称で、インドネシアの首都ジャカルタの古語です。
オランダ船がジャガタラから運んで来たイモという意味のことで、原産地は南アメリカのアンデス山脈です。
生まれと経緯
安政3年土佐藩士川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)の長男として土佐郡杓田村(現・高知市旭元町)に生まれました。
英米系医学を教える慶應義塾医学所に入塾しますが一年たらずで中退。
三菱商会の岩崎弥太郎の命で、明治10年から7年間、英国スコットランドに留学し船舶機械技術を学ぶと共に、欧米式の農業にも触れました。
帰国後、三菱製鉄所、日本郵船を経て明治26年横浜船渠会社取締役となり、明治30年社長に就任。その前年、父急死のため男爵を継ぎます。
明治35年、貿易商会がアメリカから輸入したロコモービル社製蒸気自動車を購入、自ら通勤などの際に運転。このことから、龍吉は日本最初のオーナードライバーであるといわれています。明治36年社長辞任。
明治39年に経営不振の 函館ドック再建のため来道し専務取締役となります。
函館に移住することになった川田は、明治40年に函館ドックの社長となりました。
この時に、七飯村の農地を借り入れ英国のサットン商会から七飯村の緯度に適した11種のバレイショを輸入します。この薯を自家「清香園」で成田惣次郎に試作させたところ、この中の一種「アイリッシュ・コブラー」が好成績をあげたので、これを種芋にして周辺の農家が栽培を始めました。
七飯の農業会では、このジャガイモを共同で出荷することになり、品種名が不明であったため川田男爵の品種ということで「男爵薯」と命名しました。
このイモは極早生品種で、寒冷不作で米のとれない時でも、冷害に強く、多収穫なので、農家から喜ばれ、全道に、全国にと普及され「男爵イモ」の声価を高めました。
国道5号(大沼国道)に面して、七飯総合公園から500mほど北西に「男爵薯発祥の地 記念碑」があります。
川田は 1911 (明治44)年に 函館ドックを退社。
渡島当別(現・北斗市)に新たに農場を開き, 最新式の農機具を輸入し機械化による農業を試みました。
大正3年、勃発した世界大戦のため馬鈴薯澱粉価格が暴騰し、道内の澱粉業者は皆澱粉成金となりました。この年、男爵イモを耕作した農家はその恩恵を受けます。また、太平洋戦争には食料配給が減少し、空腹を満たすための男爵イモは食糧危機を突破することができました。
五稜郭裏門の所にも「男爵薯の碑」が建てられています(昭和22年)。
男爵薯はニッカウィスキーと同じで、スコットランドで恋をした女性が好きだった「薯」を再現したくて作らせたものでした。
マッサンは日本に連れてきましたが、龍吉はそれが叶えられませんでした。
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