見出し画像

観光客が行かない美唄巡り・後篇

宮島沼 

マガン

宮島沼は美唄市の西端に位置し、石狩川を渡ると月形町になります。
JR美唄駅から西へ向かって、まっすぐ進むとあります。
この一帯は石狩川が歪曲し暴れ川となり、土木工事で月型の沼が多いところです。
宮島沼の大きさ(水面積)はサッカー場の約40面に相当し平均水深は約86cm。田園地帯の中にポツンと浮かぶ非常に小さくて浅い沼です。
しかし、日本最大で最北マガンの中継地で、春と秋には6万羽を超えるマガンが羽を休めに飛来してきます。体験型ネイチャーセンターもあるので、ふらりと立ち寄ることができます。
ただし、マガンの飛来数が1万羽をこえていれば開館していますが1万羽以下なら休館です。


美唄軽便鉄道

明治43年4月に公布された軽便鉄道法は、地方交通の安上がりな速成をめざした鉄路でした。軌間寸法や勾配の制限も穏やかで出願手続きも容易でした。
ところが、会社や事業が主体となるため敷設をめぐって係争が絶えませんでした。
美唄川流域の炭鉱開発は、明治20年代から始まっていました。しかし、鉄道輸送は北海道炭鉱鉄道の独占下にあって、他の石炭業者はほとんど顧みられることはありませんでした。

明治38年、美唄川流域に鉱区をもつ石炭業者が集まり石炭鉄道建設を計画し、この計画を引き継いだのが石狩石炭㈱です。
美唄炭山(沼貝)から北海道炭鉱鉄道の美唄停車場を経由して石狩川岸の月形7に至り、さらに石狩湾に達する198キロの特許請願でした。
しかし、これは無理があるのと北海道炭鉱鉄道の独占がなくなることもあり、鉄道敷設は美唄炭山ー美唄間となりました。
工事は明治39年10月から始まりましたが、鉱区権所有者飯田延太郎との間で鉱区をめぐって係争が起こり、工事は明治42年に中断。係争は石狩石炭の敗訴となり、鉱区を失ってしまいます。
美唄川流域の石炭埋蔵の鉱区は、浅井総一郎(日本セメント社長)が10数鉱区、飯田延太郎が10鉱区、三井物産8鉱区、園田実徳(北海道炭鉱汽船副社長)8鉱区、村井吉兵衛3鉱区、徳田与三郎2鉱区と、ほとんどの鉱区はそうそうたる実業家が所有していました。

東明駅

明治45年4月、鉱区を失った石狩石炭が美唄軽便鉄道の敷設免許を出願しました。これを知った飯田延太郎は、自らも出願。更に、鉱区の所有地に農場を持っていた桜井良三も、政友会の東武をはじめ地元有志の賛同を得て出願。こうして、三者による競願となりました。
結果は、石狩石炭㈱が40万円を投じながら中断していることが考慮され特許が下ろされました。
直ちに、工事を再開し大正3年11月5日に沼貝(美唄炭鉱)ー美唄間8.3キロが開通。
上下6往復の運行で、所要時間は35分でした。
美唄軽便鉄道を引き継いだ三菱合資会社は、美唄鉄道㈱を設立して自主営業を開始。大正13年12月には美唄炭山から常盤台に線路を延長しています。

安田侃彫刻美術館「アルテピアッツァ美唄」

国道12号で滝川に向けて美唄市街地を抜けると「美唄IC」の標識がある交差点があります。これを右折すると東明通りに入ります。(かつての炭鉱に行く道です)
美唄の商店街は、駅を中心として国道の左側にあるのですが、郊外型の商業ゾーンはこの「東明通り」になります。
ツルハやヤマダ電機などが並び、ICを過ぎると「東明公園」があります。
敷地内には2000本の桜(エゾヤマザクラ・ソメイヨシノ)と5000本のツツジが咲き誇ります。森山直太朗が夜桜の中でピアノの弾き語りをしたことで全国的にも有名になった公園です。
更に進むと道の勾配は急になり小学校が見えてきます。ここがアルテビアッツァ美唄の美術館です。廃坑になり人口減で学校閉鎖の跡地に、美唄市と地元出身の世界的彫刻家安田侃によって創られた野外彫刻美術館です。
大理石やブロンズの作品40点余が展示され、木造校舎の一階部分は幼稚園、二階部分は当時の面影を残す教室に彫刻が展示されたギャラリーになっています。旧体育館を改装したアートスペースや大理石でつくられた屋外の石舞台では、コンサートや舞踊、講演会などが開かれています。

札幌駅

彫刻家安田侃を知らなくても、彼の彫刻を見ている人は多いのです。
作品は札幌駅(上の写真)や洞爺湖など沢山設置されています。昭和20年に鉄道員の子として美唄駅前で生まれ育ち、山から下りてくる膨大な量の石炭を遊び場として育ちました。
ローマ・アカデミア美術学校で学び、大理石の産地として知られるトスカーナにアトリエを構えて制作しています。

2003年(平成15年)に、平成天皇皇后両陛下も訪れています。
野外彫刻美術館は箱根や札幌にもありますが、私はここが大変気に入っています。(札幌から1時間40分ほどです)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?