北海道ゆかりの人たち 第十八位 近藤重蔵
近藤重蔵開削碑
上の写真は北海道広尾郡広尾町ルベシベツに建てられている碑です。
北海道で初めて道が作られた記念碑です。
近藤重蔵という人は、現在の「北方領土」問題に先鞭を付けた人です。
明和8年(1771年) – 文政12年6月16日(1829)
江戸時代後期の幕臣、探検家。
生い立ち
徳川10代将軍家治の時代、近藤右膳守知の三男として江戸の駒込で生まれました。
近藤家は代々御先手組「与力」を務め、旗本として名高い家柄でした。
(与力とは、江戸時代、諸奉行・大番頭 (がしら) ・書院番頭などの支配下でこれを補佐する役の者。その配下にそれぞれ数人の同心をもっていた)
重蔵は山本北山に儒教を師事。
幼児の頃から神童と言われ8歳で四書五経をそらんじ、元服した13歳のころには背丈はすでに180㎝、強い眼力、がっちりしたした肉体を持ち合わせていました。
この頃、天明の大飢饉(1782年/(天明2年)から1788年(天明8年))に突入し、全国で農民一揆が相次ぎ多難の時代を迎えていました。重蔵の通う学問所も、お金を払えない庶民の子供は次々に辞めていきます。重蔵は新たな学問所を開くべく、協力者を募り17歳で私塾「白山義学」を開き塾長となります。たちまち評判となり、3年で1000人もの人びとがその門をくぐりました。
寛政2年(1790年)、20歳になった重蔵は学問所を閉め、父の後を継いで町方与力となります。
寛政6年、松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味に合格。
寛政7年、24歳で長崎奉行手付役となり、初めて日本の置かれた立場を知ることとなりました。当時、ロシアは千島列島沿いに南下し、列島各地で紛争が絶えませんでした。更に、蝦夷地におけるアイヌ民族に対する松前藩の強制労働に対しても知ることとなります。重蔵は、北の地の動向に強い危機感を抱き始めます。
寛政9年に江戸へ帰り支払勘定方、関東郡代付出役と栄進します。
寛政10年(1798年)、幕府は再び蝦夷地の調査を行うこととなりました。
ロシアの南下政策は日増しに激しくなり、松前藩の小藩では対抗できなくなりました。
調査団は、まさに国の命運を決める人材が選抜されます。
老中・松平定信は水戸藩の下野源助、蝦夷地調査経験者・村上島之丞、蝦夷地探検第一人者の最上徳内。
皆、40代半ばで、この道のベテランたちでした。
そして、彼らをまとめる責任者に27歳の重蔵が選ばれたのです。溢れんばかりの情熱と抱負を持って、1798年4月、江戸を出発しました。
箱館に到着後、海岸沿いに道なき道を歩き、川を渡り、ひたすら歩き続け、道中改めてアイヌの人々の貧しい生活ぶりを目のあたりにしました。
ようやく根室に着くと、地元のアイヌの青年に小舟を出してもらい、すぐに択捉島に向かいました。ところが海峡は想像以上の難関でした。5メートルのうねりに、慣れているアイヌの青年も必死に祈りを捧げながら舟を操る有様でした。こうして、命からがら択捉島に着いたのは、江戸を出てから3ヵ月後のことでした。
択捉島でアイヌ民族の生活や資源などの調査を終えると、丘の上に一本の柱を建てました。大きな文字で「大日本恵登呂府」と書き、その下に重蔵他3名の同行者、そして協力してくれた11名のアイヌ民族の名を書き連ねました。
このような柱にアイヌ民族の名を掲げるのは極めて稀なことでした。その理由を重蔵は、「択捉島を我が国の領土であると宣言しても、大日本恵登呂府の名を守って、ロシアの侵略を防ぐのは住民であるアイヌの人たちだ」。
この言葉に心打たれたのはアイヌ民族だけではなく、彼を長として従ってきた3名の調査団も、改めて若き指導者の大きさを感じていました。
択捉からの帰途、一行が十勝の広尾に着いたのは10月末でした。
峠の登り口にあった石の塔がいくつか立っていました。ここは日高山脈が海岸に向かって突き出た断崖絶壁の難所なので、熊に出会い殺される者、海に落ちたり、落石に打たれて死ぬ者が多く地元のアイヌ民族も困り果てていました。
そこで、重蔵は自費を投げ打って、広尾のルベシベツからピタタヌンまでの道12キロを開削することを決めました。68名のアイヌの青年たちの協力で、東蝦夷地一番の難所といわれた海岸線に山道がつくられました。
アイヌコタンのある平取で源義経伝説を耳にしました。
自害したとされる義経が、密かに蝦夷地に渡り、たどり着いた平取コタンで民族から敵を守ったという伝説でした。アイヌの人たちは、農耕や機械などを伝授してくれた義経を「ハンガンカムイ」と呼んで崇めたといいます。
この義経公を通して、アイヌ民族と和人との融和を図れないかと考え、重蔵は小さな祠を建て、30センチほどの義経の像を作って安置しました。この像がご神体となり、明治9年に平取義経神社となります。
第一回の蝦夷地探検を終え、重蔵の報告を受けた幕府は北方領土を幕府直轄にすることを決定します。重蔵は新たに択捉島開発の責任者に命じられ、翌1799年、再び択捉に向かいます。
昨年は危険を冒して択捉島に渡りましたが、島の未来がかかっているだけに今度はそうはいきません。箱館港に拠点を持つ商人高田屋嘉兵衛に命じ、択捉島までの安全な航路を調べることにしました。
高田屋は持ち前の探求心で安全な航路を発見することに成功します。こうして択捉の開発は高田屋と協力して開発が進みました。
まず、択捉島に米・塩・衣類などの物資を運び込み、そうして17の漁場を開き、その漁法を教えてアイヌの生活向上に努め、その生産・労役に応じて公平に物資を分け与えたのです。
この噂を聞き、択捉に移住するアイヌの数も増え、高田屋嘉兵衛の船もしきりに往来するようになり、島は少しずつ活気を取り戻していきました。
以来、重蔵は37歳までの10年間に、5度の蝦夷地探検を行いました。
最後の1807年には、利尻島に往来するロシア船の調査に就きます。ところが
利尻からの帰途、石狩川を下りながら上川盆地を調査している時に、舟が転覆し食料などの積荷をすべて失ってしまいました。命からがら這い上がり、魚をとって命をつないだ重蔵は、ふとこんなことに気が付きました。
雄大な石狩川の本流、支流を交通の手段として利用すれば、容易に蝦夷全域に行くことができる。下流には肥沃な石狩平野が広がっているから、作物も豊富に実るはず。幕府の本府を構える場所は石狩川下流がよいのではないか。
江戸に帰った重蔵は、幕府に進言しました。幕府は、彼の意見に賛成しましたが、当時は財政困難で、ただちに実行に移すまでには至りませんでした。
しかし、この後、役人たちの目は石狩川下流に集中され、やがて松浦武四郎の後押しによって、それから半世紀のち、蝦夷地の首都は札幌と決定されました。
蝦夷地での務めを終えた近藤重蔵は、幕府から厚く恩賞を与えられ、書物奉行としての地位を与えました。
江戸で静かな生活を送りながら、その後12年にわたり数々の書物を著しました。それは蝦夷地の地理にはじまり、歴史、政治経済、自然科学など広い分野にわたり60余種1500余巻の著作があります。
ところが1826年、一転して暗闇に突き落とされます。
重蔵は本宅の他に、三田村(現在の目黒区中目黒)に広大な遊地をもっており、文政2年(1819)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した富士塚を築造しました。目黒富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑わい、門前には露店も現れました。
文政9年(1826年)、この屋敷の管理を任せていた長男が屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島に流罪となり、父である重蔵も連座して近江国の大溝藩(滋賀県)に預けられことになりました。
大溝藩は緊急に陣屋敷地内に牢屋敷を増築し、配流人である近藤を迎えました。藩主光寧は重蔵を丁重に扱ったと言われています。時の著名人でもあった近藤は、小藩といえど京に近く学問や見識を得ることへの関心が高かった大溝藩において、重蔵は格好の珍客とも言えました。
流人ではあったが近藤は書物を与えられ、藩士を相手に意見交換を行ったり、藩士と漢詩を唱和したりしていたことが伝わっています。
それから3年後の1829年(文政12年)同地にて死去。享年59.
死後の万延元年(1860)に重蔵の連座処分は赦されたが、長男の富蔵は半世紀以上赦免されず、富蔵による亡父の墓参は、富蔵の流刑から53年を経た明治13年にようやく実現しました。
近藤重蔵の墓は、JR近江高島駅の西方約500mに位置する臨済宗東福寺派の瑞雪院(ずいせついん)の墓地にあります。
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