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北海道ゆかりの人たち 第五位 お雇い外国人

「お雇い外国人」とは、明治に入り北海道開拓使が雇用した外国人のことです。アメリカからケプロンを北海道開拓最高顧問として招きますが、これによって多くの外国人を招請し開拓が大きく進みました。

「お雇い外国人」のアクセスは現在1,639で第五位になります。
2020年の公開した年は37と少なかったのですが、21年160、22年779で今年はすでに652と伸びています。

開拓使長官となる黒田清隆が、明治4年米国・欧州を視察した時に米国の農務長官ホーレス・ケプロンに北海道開拓最高顧問に赴くことを承諾させました。現在の日本でいえば現職の農林大臣を辞めさせて招いたということです。黒田清隆は優秀なヘッドハンターでもありました。
ケプロンの人脈で多数のお雇い外国人招請となります。

黒田清隆は帰国後、開拓長官東久世通禧が辞任した後に、次官のまま開拓使の頂点に立ちます。

主役がいなくなった明治維新後

北海道の開拓は、明治維新後の日本再生の縮図といえるでしょう。
考えてみれば、明治維新に導いた主役は、その後の改革には皆亡くなっていました。長州藩の吉田松陰・松下村塾の優等生高杉晋作、土佐藩の坂本龍馬更に薩摩藩の西郷隆盛も表舞台から消えました。

維新後の日本国の骨格を作ったのは、当時海外視察をしていた若者や脇役で動いていた人物が中央政治に躍り出たのです。
初代総理大臣の伊藤博文ですら松下村塾では末席の人物でした。何のための維新改革であるのか、100年先までのビジョンを語る者がおりませんでした。

お雇い外国人に助けを求めることは悪くはありませんが、判断をするのは日本人です。
幕末に大友亀太郎(二宮金次郎の代行)が北海道開墾に派遣されました。
日本人の開拓プロとして最初に来道した人物でした。新政府となり、大友亀太郎は大いに不満であったのでしょう。小田原に帰ってしまいます。

新政府は東京で指揮をしました。蝦夷地(北海道)は、元々アイヌ民族が先住民として生活をしていた大地です。現地で指揮をとらなければ、実情は把握できるものではありませんでした。
探検家、松浦武四郎も新政府に判官の命を受けましたが蝦夷地への命令が下されず東京待機のため辞令を突き返してしまいます。
また、「アッシ判官」と呼ばれた松本十郎は、黒田清隆が探し回りますが厚田のアイヌ部落から出てきませんでした。
榎本武揚にいたっては、ケプロンと対立し論争となり、大いに黒田を困らせ、ついに榎本を開拓使から外してしまいます。

また、官立学校教育の道徳に宗教(キリスト教・ウイリアム・スミス・クラーク)を持ち込んでしまったことで、鎌倉時代から培ってきた日本人の思想が簡単に中に浮いてしまいました。
欧米かぶれと言われてもしかたがなく、これは太平洋戦争後も同じことが起きました。
明治維新以後、日本人の思想に大きく根付いてきた悪しき傾向といえるでしょう。

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