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北海道ゆかりの人たち 第十六位 牛来 昌(ごらい さかえ)

牛来 昌

牛来昌
1936(昭和11)年~
開拓農家の3代目として斜里町ウトロに生まれる。
‘67年~‘83年、斜里町議会議員。
その間「知床100平方メートル運動」、知床における自然保護運動の中心メンバーとして活動。
‘86年、林野庁北見営林支局が知床国有林の伐採計画を発表するといち早く反対運動を展開。
翌年、強行伐採後の町長選で初当選。バブル期にはさまざまなリゾート計画を阻止、知床の世界遺産登録を目指し‘05年に実現させる。‘07年、5期20年にわたる町長職を勇退。

網走から斜里町・ウトロ町~羅臼町を訪れた時に、疑問に思うことがいくつかありました。

らうす海鮮市場

特に、道の駅「知床・らうす」に併設された「らうす海鮮市場」で、「この羅臼にマレーシア人までが来てくれるようになったのは、高橋知事のおかげです」には驚きました。
戻ってから調べてみると、行きついたのは「牛来昌」という人でした。

平成17年7月、世界遺産委員会の開催地、南アフリカ・ダーバンの会場で採決が下された瞬間、高橋はるみ北海道知事と牛来昌斜里町長は、固く手を握り合いました。
牛来は自然を破壊して開発を優先していた高度成長期から、声を大にして自然保護を叫び続け、故郷を守るために斜里町長となり闘い続けていました。

生い立ち

斜里町ウトロに昭和11年8人兄弟の長男として生まれます。
ウトロは300人ほどが林業と漁業で生業を立てていました。中学3年で父が他界。母のおなかには弟がおり、以来15歳で7人の兄妹の父親代わりとなります。高校進学は打ち砕かれ、黙々と働き続けるしかありませんでした。

昭和30年に入ると、斜里とウトロ間に国道が開通。
昭和35年、森繁久彌の「地の崖に生きるもの」が公開され、その4年後に道内4番目となる国立公園に指定されました。
17歳、知床の山に取材に入る東京や札幌のテレビ局、出版社などの案内の仕事が舞い込むようになっていました。農業をしながらガイドで山を歩き、都会の人々と交流をするうちに「自然保護」という考えが芽生えてきます。

昭和42年統一地方選挙時に、周囲の人たちから「お前、ウトロの代表として町議選に出馬しろ」と言われます。
知床横断道路の工事や民間企業の木材搬出などでブルドーザーが入り込むと、土砂を沢筋に捨て、沢はあっという間に埋まり、雨とともに泥が海に流れるようになっていたからです。自然保護問題を唱える者はいませんでした。しかし、誰かが公の場でそれを言い出さなければならないと訴え当選しました。
高度経済成長に湧いていた1970年代、全国の海岸や河口は次々とコンクリートで塗り固められていきました。知床半島の中ほどにある開拓地「岩尾別」の土地の買い占めが始まったのはそのころで、岩尾別は自然条件がとくに厳しく開拓者は次々と離農します。その跡地を観光業者や不動産業者が安い値段で買いたたきました。

知床100平方メートル運動

知床100平方メートル運動


斜里町議員だった午来は、当時の藤谷豊町長とともに北海道庁にかけ合います。しかし、まるで取り合ってもらえません。
そんな折、新聞でイギリスのナショナルトラスト運動を知った藤谷町長が、ある名案を思いつきます。広大な離農跡地を100㎡単位にして分譲し、売った土地は町が一括管理し、植林して森の復元を目指す、というものでした。
こうして1977年、“知床で夢を買いませんか”をキャッチフレーズに「知床100平方メートル運動」が始まりました。
「原生の森に還るのに何百年かかるかわからない。当時、そんな遥かな夢に向かって、行政主体で行動を起こした例はなかった。記者発表をすると、それはもうすごい反響でした」

町長が替わっても運動の主旨が変わらないよう、厳正な管理を義務づける条例を制定。そうした町の姿勢が信頼を得て、対象地の保全は予想より早い20年間で終了。4万9250人余りから5億2000万円もの寄付が寄せられました。

「知床100平方メートル運動」が始まって10年、運動地に隣接する国有林を北見営林支局(当時)が伐採する計画が持ち上がります。5年間で原生の樹木1万本を伐り、ヘリコプターで運び出すという大がかりなものでした。
牛来は町議をやめていた時期だったので、『知床100平方メートル運動』副本部長として、また一町民として議会に反対し続けます。
しかし、何をいっても相手にしてもらえません。
‘87年4月14日、全国の自然保護団体が反対する中、樹齢200年を超えるミズナラなどの巨木500本余りが強行伐採されました。その12日後の選挙で、午来は伐採賛成派の現役町長を破り、見事当選しました。
午来町長の誕生を受け、‘89年には林野庁が原生林の伐採を全面禁止。
結果的にこの強行伐採は、「伐採中心」から「環境重視」へと林政が大きく転換するきっかけとなりました。
町長3期目を迎えた平成3年、知床100平方メートル運動の20周年シンポジュームに、世界遺産副委員長のビング・ルーカスを招きます。
実際に知床を歩いたルーカスは、牛来に「可能性は十分あります。あとは地元の熱意です」と語りました。以来11年の努力を経て2005年7月、ついに世界自然遺産『知床』が誕生します。

知床世界遺産が登録された理由とその範囲


知床世界遺産の範囲

「流氷によって海と陸の豊かな生態系が絶妙なバランスで関わり合っている点が、高く評価されました。そのため、海岸から沖へ3キロが漁業制限区域になった。だから世界遺産への登録は、羅臼と斜里の町民の皆さん、とくに漁業者の方々が前向きに理解してくれたおかげです。
やっぱり山が元気だから、昆布も育つし魚も集まる。川の水がそれを支えてくれている、と漁業者の皆さんは知っているんです。」

牛来昌



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