見出し画像

観光客が行かない旧檜山巡り・後篇

丹羽五郎

丹羽(にわ)会津藩重臣丹羽家の分家の子として生まれ、本家に男子がいなかったため10歳で養子として後を継ぎ、一躍1000石の主となります。
15歳の時、明治維新で会津戦争が起こり、丹羽家も五郎の父は自決、いとこは白虎隊として自決。
五郎は東京で捕虜生活を送り、18歳で幽閉が解かれますが、東京で学問を続け、一家の主として警察の巡査という道を選びました。研究熱心な五郎は、いろいろな方法を発案し、なかでも「戸口索引原簿」は、画期的なものとして賞賛。また警察官のための教科書なども出版。こうした功績から30歳の時には警部に昇進。明治20年、35歳で、ついに警察署長を命じられます。
薩摩藩士が多い中で異例の出世でした。

五郎の夢

このころ北海道は開拓ブームが巻き起こっており、警視庁では出世をしましたが、1000石の家禄と比較すれば微々たるもの。
人生の大きな挽回のチャンス、それが北海道への夢でした。

明治23年、夏休みを利用して北海道に渡り、開拓長官永山武四郎と会い「旭川方面は交通の便が悪く、資金も多くかかりそうなので瀬棚辺りはどうか」と勧められ、利別原野(今の北檜山町)の調査に入りました。
東京に帰ると、開拓使に利別原野180万坪の貸付を願い出、その許可は翌年の明治24年におります。
北海道開拓が上司の怒りに触れ「現職の警察署長が、このような事業に手を染めるとは」。しかし、18年間勤めた警察官に別れを告げ明治24年依願免官となりました。
丹羽は旧会津藩領であった猪苗代千里村の住民12戸と北海道に渡り開墾を決意。移住者の旅費と半年間の生活費は五郎の準備資金から支給され、明治25年3月、49人の移住民を連れ瀬棚町を目指します。
この時五郎は39歳でした。

役場の地図案内


荷下ろしの松

町役場で書いてもらった地図には来た道を戻る形で最初の史跡案内は「荷下ろしの松」でした。
先ほど通った所で、気をつけて見ていると、それらしき松がありました。
しかし、この一帯は建物があるわけではなく、道と林ばかりですから聞かなければ分かるものではありません。
五郎一行が利別原野に到着すると、一面は雪に覆われており、山の中に大きな松があり、ひとまずこの松を目指して進み、ここに荷をおろしました。
後に、この松は「荷卸しの松」と呼ばれ、今も丹羽村発祥の地として町のシンボルになっています。
石碑もあり、常に清掃されているようでした。いずれにしても誰かが毎日掃除をしなければ、すぐに雑草だらけになるでしょう。

玉川小学校跡

次に目指したのは、更に国道を戻り、道から外れて小高い丘に向かいました。見えてきたのは玉川公園です。
公園の手前に「玉川小学校」の跡地があり、校門入口に初代校長の銅像があります。五郎が最初に着手したのが学校でした。玉川小学校閉校記念碑もあります。
五郎は小学校、青年学校、新聞閲覧所、郵便局を設立し、大正2年には、開拓農地1000余町、276戸1380余人入植の功績を認められ藍綬褒章を受章しています。

玉川公園(玉川神社・丹羽五郎銅像)

丹羽村の将来のため「丹羽村基本財団」を設立。
目的は、公共事業の経営とされ、学校教育、神社・公園の経営、道路の開削、図書館の設立、身寄りのない者や貧しい者の救助、老人の介護など、今日の行政のほとんどが含まれていました。
最後まで会津藩士の誇りと望郷の念を抱きながら、昭和3年、76歳の生涯を終えました。
丹羽村開村70年の年に北檜山町「水仙の里」玉川公園に丹羽五郎の銅像が建てられました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?