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編集担当Xの拾い読み(2023/12)

*仕事で読んだ本のメモです

三木理史『国境の植民地・樺太』(塙書房 2006年)

プロローグ 国境と植民地
 Peattie, M.R.によれば日本の植民地の地理的特徴は内地を取り囲む「防波堤」であること(インドやアルジェリアとは違う)。搾取・投資型植民地の研究にもとづく既成概念に対し、移住型植民地としてみた樺太、北海道の研究から植民地の問題と北海道史を再考する。
 庶民の多くが国境を正確に意識するようになったのは大正~昭和初期。満州族政権の清朝期にはサハリン島を「庫頁島 こようとう」と呼び中国製品の交易路として重視した。1860年の愛琿条約によって全島がロシアに帰属することになり朝貢関係も途絶えた。幕府は1862年の協議を踏まえ1867年にサハリン島を日本ロシア両国の雑居地とする「カラフト島仮規則」に調印。明治政府は1869年にサハリンを開拓使の所管に置いたが、過剰負担の為1870年には樺太開拓使を設置。政府部内では樺太放棄論に傾いていた。1875年に樺太千島交換条約に調印してサハリン島を放棄したが、日本人の中でこれを不当と捉える者も多く、日露戦後交渉による樺太獲得を「回復」とする見方につながった。
 「サハリン」「樺太」の名称。「サハリン」は現地民族による自称地名ではないし、「樺太」が日本統治時代の支配者側による呼称とは限らない。原住民の情報を基に作成した18-19世紀の北方図で南部がカラフト、北部がサハリン/サカリンとあった。サハリンは満州語起源、樺太は「唐人 からひと」の転訛とされる。北緯50度線付近にシュミット線がある。植物相に加えて民族相の変換線でもあり、北部は主にウィルタやニブフの生活圏、南部は主にアイヌの生活圏だった。樺太千島交換条約により日本政府はアイヌは日本統治下の民族だとして樺太アイヌを北海道の宗谷地方に強制移住させ、その翌年に対雁に移した。建前は「保護」だが本音は「開拓」にかかわる労働力の確保。漁撈生活をしてきた彼らに土木工事や農業をさせ、コレラ・天然痘の流行もあり人口は半数近くまで激減した。生き残った者の多くは1906年に樺太が日本領になると帰島した。樺太庁はアイヌに日本国籍を与え、オタスに北方民族居住地区を開設して囲い込んだ。このような「保護」政策は長期的には彼らを諜報活動に利用するためだった。
I 豊原出現
 
日露戦争末期(1905年)に大本営は樺太占領の方針を定める(戦後の講和会議で領土割譲要求を行うため)。ロシア兵の抵抗は根強く捕虜の虐殺も発生した。日露戦後ロシア人人口は急減した。
 樺太民政署は当初アレクサンドロフスクに本署、コルサコフに支署が置かれたが、1905年ポーツマス条約で南部の領有が決定すると本署をコルサコフ、支署をウラジミロフカに移転。
 1907年樺太庁設置。総督府は置かず、樺太庁長官は当初から民間人が就任した。1908年にウラジミロフカを豊原に改称。豊原の都市計画は台北や京城のような華麗で実験的なものでなく道内主要都市に近い。
II 北海道に倣って
 
1752年、北海道より約200年後に樺太で漁場が成立した。ロシア人はこれらをアイヌを奴隷同然に使役するものとし、チェーホフも『サハリン島』でロシア人がアイヌを解放したとしている。樺太千島交換条約後のロシア領有時代も日本は継続操業を認め、東海岸がマス漁、西海岸がニシン漁を中心に発展した。
 政府では漁業主体とするか農業主体とするかで開発方針がまとまらず、1907年の帝国議会で原首相は並行開発を主張した。
 樺太の自然条件は厳しく、内地とも農業様式が異なるため農業生活者の生活は困難で野菜の行商、炭焼き、密漁、工夫、木材伐採などをした。
 樺太の日本人移民を支えたのは農業でなく工業であった(資本拓殖)。パルプ工業が中心。三井物産は早くから樺太の森林資源に注目し、海運運賃が原木ほどかさまず高く取引されるパルプに島内で加工して移出することを考えた。
III 紙の王国
 
樺太ではパルプ生産のため石炭が必要なため、森林資源を三井物産、石炭生産を三井鉱山、パルプ工業を三井合名と王子製紙が分担した。港湾と鉄道の整備には三井が資金を融通し、樺太庁への三井の影響が強まった。
 東西両海岸の流通不備は工場の拡散によって補完された。
IV 越境する人々
 
帝政ロシア時代、日本領有直後の樺太在住朝鮮人の数は少なかったが、1917年に三井鉱山川上鉱業所が内地での工夫募集が困難なため朝鮮に募集員を派遣して110名の工夫を使用したことに始まる(当初は1年契約)。1920年の日本軍の北サハリン占領により多数の朝鮮人が南下した。朝鮮人社会が形成されると彼らを頼って朝鮮半島から係累者が移住し、樺太の朝鮮人人口はますます増加した。日雇い人夫や売春婦のような非農業労働が多かったが、1925年にはその6.6%が農業に従事し、徐々に増加した。朴炳一は朝鮮人労働者に安定した財産を与えるため、本斗町の吐鯤保で開墾事業に着手し、衛生機関や尋常小学校の設立も計画した。
V 森林から石炭へ
 
浜口雄幸内閣は1930年からの審議で行政簡素化のため樺太を内地に編入し樺太県を設置しようとしたが、浜口首相が襲撃され、その後の混乱のため一旦立ち消えとなった。
 森林資源が乱伐採のため枯渇の危機に瀕し、1931年に樺太庁は産業の合理的改良と新興産業の創始をすすめる計画案を立てた。拓務省の「樺太拓殖計画」(1934年)では1931年の「案」より鉄道費が減額され、森林・産業振興費が増額された。
 日露戦争中の1905年にすでに炭鉱調査が実施された。石炭は1929年以前には封鎖政策のため島内消費さえまかなえなかったが、30年代以降に新たに多くの炭鉱が開発され、採掘炭の多くは各開発資本の内地工場へ直送された。
 しかし鉄道や港の整備が進まず、撫順炭を代替するまでには至らなかった。
エピローグ 鉄のカーテンの彼方へ
 
1942年に拓務省の大東亜省への発展的解消とともに樺太の内地編入が実施される。終戦近くに開戦した樺太戦は軍人の戦士・不明者約2千名と、それと同数の島民犠牲者を出した。さらに引き上げ船三船がソ連軍らしき潜水艦によって撃沈され、1708人が死亡した。日本は朝鮮人の帰国を推進せず、ソ連は朝鮮人を労働力として望み、アメリカ合衆国は社会主義圏に編入された地域の朝鮮人を韓国に帰国させたくなかったため、朝鮮人はサハリンに置き去りにされた。

(感想)都市計画と鉄道についての記述が詳しく、とくに東西連絡鉄道が整備されていれば日ソ戦での被害が減っていたのではないかという指摘や、樺太の鉄道は1067mmの狭軌鉄道で内地や台湾と共通だが満鉄(国際標準の1435mm)とは違う(のでソ連が満鉄車を取り寄せて樺太でそのまま使おうとしたが使えなかった)という話などおもしろかった。ソ連とロシアによる現在までの都市開発の話も読みたかったが、主題が植民地としての樺太なので、著者も言うようにこの本はここまで。