私は夫をよく失笑させる 失笑ならいいが今日は顔が引き攣っていた 今日は買い物にいく車中のなんて無い会話 道中にある空き店舗にいつしか工事が入り、次のお店が決まったのであろう景色 夫「あ、看板付いてたねー。何て書いてたか見えた?」 私「小さくて見えなかったー」 夫「結構出来てた?」 私「うーん、、、結構って あなたの結構と私の結構って多分違うからわからない」 夫「………」 適当に答えてればすんなり纏まった会話 でも、私はこういう咄嗟の反応が適当に流せないことがある。
7月が終わる久しぶりにnote 今月は土用の始まりと共に本当に色々ことが私のもとへやってきて 心と躰は付いて行けずバランスを崩した日々でした。 今は少しずつ整ってきて たくさん笑えるようにもなりました。 人は勝手なもので 辛いとき苦しいときは こんな日々、一日でも早く過ぎ去って欲しいと願い 愛おしい 楽しい 幸せな日々はずっとこのままで せめてゆっくり時を刻んでいて欲しいと願う そんな勝手 とおらないのだから 人である今は 生きること自体を存分に味わおうではないか
お店をしていると色々なお客様がやってくる 常連さんだとふと心の内を話すこともしばしばあること 先日、初めての来店だという一人の女性のお客様 久しぶりにカフェでゆっくりしたいと思い検索したら出てきたのがうちのお店だったという 店内をぐるりと見廻し、一先ずお茶を愉しんだあと他にお客様もいなかったのもあってか床に座り込み猫を撫でている。 こんな時間ずっと作れなかったと涙を流し始めた。 自分一人のために過ごすということが出来なかったと。 来てよかったし、行動出来てよかったと。
昨日は世間話を延々とする人を相手にすることがありほとほと疲れた! 最初から最後まで世間話だ 忙しいとは別の疲労感 夕方項垂れた私の姿を見て失笑 「あの人の延々と続く世間話で疲れたんでしょ?」 私のことは私以上によく観察している夫に尊敬の眼差しを力の無い薄目で送る 世の言う世間話は天候や日々のちょっとした情報のことだと思うのだけど 私は、その世間話の使い方として*会話の冒頭のみ一言二言交わす程度で使うものと捉えていて 話とはそこから深く派生し、心地いいリズムが生まれていくもの
草木や花が色濃く鮮やかに楽しませてくれる季節がやってきました。 毎年春にはこころ入れ換えて仕切り直す畑活 畑は2年前からご近所さんに借りてはいるものの、毎年梅雨からの長雨や厳しい日照りに失速していて、秋に反省する繰り返し 付き合い方がわからず時が経ってしまったけれど 諦めてない。 「今年の気合いはこれまでどは違うぞ!」と自分では思っている。 何といっても少しばかり、いや、自分では大分意識も環境が変わってきたと感じる。 色々な意味でそうせざるを得ないように、自然
本を読むことが好き。本を読む時間が好き。 めくる度にふわっとくる紙の香りも好き。 美しい装丁、こだわった紙質や素晴らしい印刷の技術を愛でるのも好き。 ジャンルは拘らずに読む。 最近特に本を読む時間を増やしている。読みたい読みたい と脳がサインを出してくる。 本が好きな理由 敢えてあげれば幾つも出てくるけれど、一言で今の私が言葉にするならば「心が平穏でいられる」に尽きる。 そんな存在って何だかこう、無理をしないでいいそのままの自分を受け入れてくれる様な親友のようだ
我が家は夫と猫2匹の家族で暮らしていて、最近小さな集団の家族が増えた。 新しい家族はニホンミツバチ 巣箱は夫が昨年から拵えていたけれど、一向に自然入居してもらえず。。。今年もダメかな〜でも一応気に入ってくれるかもしれないから、準備だけはしておこうと、たまたま気が向いて庭を整える流れで配置の整備は巣箱の掃除をしていた。 まさか翌日にご近所さんで分蜂して分けてもらうことになるとは! と予期していたかの様な前日の二人の行動から考えると余計にご縁を感じて嬉しくなった。 心優しいご近所
はじめに なぜ「note」を始めることにしたのか 私は小さなお店をしているということもあって、今は主にInstagramで写真と情報を載せたり時々思うことを少しだけ書いてみたり お店用と個人用のアカウントを2つ持ち、載せる内容を分けている。 思うところ、Instagramは写真>言葉 な世界と捉えていて そこでは長い文章を綴るのに何だかとても気を遣うので不自由 笑 そういう私もInstagramではよっぽどの興味が無い限りとても長ーい文章は読む気がしないので他の人達もそうな