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疑常辞書

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常識を、疑え。日常を、疑え。「常態」は「死」である。
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#常識を疑え

【狂う】まともになろうとすること、またはその結果

【読書】立派な人間になることを諦める行為 【本】薬物の一種。摂取しすぎると死ぬ。ダメ、ゼッタイ。 -- 【日常】①この世で最も恐ろしいもの。②あらゆる事象を呑み込んで、ひたすら続けていくもの。 【孤独】欲望を貫き通した先にあるもの。それでも貫かずにはいられない。 -- 【自然体・自由】得ようとするほど失われていくもの。 【男女関係】最も近く、最も遠い関係。 【結婚】サスペンスドラマのオープニング。 【親子】互いの過去と未来を映し合う鏡。羨み、恨み合う関係。 【子供】残酷でタフ

【"大衆社会"が、"個人"に教えない不都合な真実②】 マジョリティ(みんな)とサイレントマジョリティー(大衆)の矛盾

"多数派として声を上げる者は、声を上げたことにより、すでに少数派になっている。" point①「みんな」と「大衆」の意思は違う。 世直し系のテレビ番組があったとします。 とっても人気で最高視聴率が30%だったそうです。 さあこれで、世の中は変わるか!? 残念ながら、変わりません。 なぜか? 答えは簡単、残りの7割は見ていないからです。 選挙をしたら当然3割の意見は大敗します。 同様に、ミリオンセラーや100万いいね!でも影響度合いは、全国民の1%。 残りの99%は、全然

誤「英語を話せる」→正「英国風に話せる」

"Englishというのを英語と訳すことは間違いだ。" 「日本語を話せます」は英語で「I can speak Japanese.」。 だけど「私は日本人です」は英語で「I‘m Japanese.」。 ならば、「I can speak Japanese.」は機械的に訳すと「私は日本人を話すことが可能です。」になってもおかしくなくない?? そう、「I can speak 〇〇.」=「〇〇を話せる」という訳はおかしい。 そもそもspeak は目的語不要の自動詞で、直後に名詞を取

【"大衆社会"が、"個人"に教えない不都合な真実①】一般常識と現実の矛盾

「フリーランスは大変だぞ。サラリーマンの方が楽だよ」 そう言って脱サラを引き止めてくださる心配性な優しい上司に、同じ歳のタイトル画像のような2人の写真を(職業が分からないようにして)見せて、「どちらがくたびれていますか?疲れていますか?人生大変そうですか?」と聞くと、どう答えるでしょうか。 間違いなく、右側だと答えるでしょう。 一体全体、サラリーマンの何が楽なんでしょうか。全く謎です。 お金を手に入れる労力が少ないからでしょうか? 確かに、サラリーマンをしていれば、お金

「何もしない」ヤツが「いちばんえらい」

優等生の皆さん、偉くなりたいなら勉強なんかしていてはいけません。 注力すべきはむしろ、いかに勉強をしないか?ということ。 つまり、 ・いかに早く分かった/知っているフリができるか ・いかに他人にやらせるか ・いかに最小限の労力・時間コストで最高の結果を手にするか という力をつけるほうが良いでしょう。 一生懸命がんばる人は"すごい"けど、"えらい"かどうかは、検証が必要です。 "武士は食わねど高楊枝" ほんのちょっと前まで、えらいひと--貴族や武士にとって、労働は恥でした

完全勝利したいなら、自分の世界を作るしかない

陪審員の皆さん、世界を支配しているのは誰なのでしょう? これほど多くの人が生きづらさを感じているのにこの世界が崩壊しないなんて、絶対、どこかで誰かが一人勝ちしてオイシイ思いをしているからとしか考えられません。 それから、理系学生の皆さん、「勝ち組」になりたいなら今すぐ文系に転向しなさい! なぜなら、理系とは、ルール(真理・理・法則・法)を「見つけ出す」系であり、文系とは、それらを「生み出す」系であるからです。 その昔、「勝ち」とは武力であった。 ところがその後、文人達によ

この世で最も凶悪なものは「完全無欠の善」なのかもしれない

かまわぬ/そなたが光なら光など要らぬ! ――宮崎駿「風の谷のナウシカ」 社会主義に無理があったのは、「どんな人間も教育すれば真面目で勤勉な働き者になる」という考え方に基づいているからで、キリスト的世界に横たわる「人間は善いことをするために生まれてきた」というのは開放なようで束縛だ。 しかし、 人は「教育を受ければ素晴らしい人間になる」「人間は善いことをするために生まれてきた」を否定できない。ほかでもない人自身が、それを否定したらそのに瞬間あらゆる非人道的なものにさらされる

「神」は、“よいもの”、“素晴らしいもの”? ―もののけ姫の島に生きる―

キリスト系世界では、神は人を愛し、 イスラム系世界では、神は人を律し、 仏教系世界では、仏は人を開放する。 ところが、神道系世界においては、神は人に対して特別な興味はない。各々好きなように存在しているだけだ。 私の暮らす島に元来根付いていたのは神道系の世界観である。 現在、この島の人達は素晴らしいものに対して神と言い、困ったときには「神様仏様〜※」なんて言うけれど、実はその感覚も輸入品であったりするのだ。 (※細かいことを言えば、困窮は神様、苦悩は仏様を頼むのがいいのではな

「新しい出会い」は必要か?−自由とは、迷いと苛立ちに溢れている状態である−

「よりどりみどり」「〇〇放題」。 ポジティブな意味で使われてきたこれらの単語が、必ずしもそうで無くなってきている。 選択肢の多さや自由度の高さが、「良いこと」「誇るべき点」なのか分からなくなってきたのだ。--バイキング形式ではお腹は苦しくなるが心は満たされなかったり、通い放題のジムのほうが結局行く回数が少なくなる場合があるように。 -- メインPCはWindows、スマホは絶対Androidだった私である。 しかし今日、私用PCをMacにした。 一応、研究室というものに在籍