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「フェアウェル」感想 / 移民の子どもたちへの親近感の理由

雨の中を日比谷へ「フェアウェル」という映画を観に行った。

中国系のアメリカ人としてNYに暮らすビリーとその家族のもとに、中国に暮らす祖母の余命がわずかであるという報せがある。祖母にその余命がわずかであることを告げないまま、祖母のもとに集まる口実として、従兄弟の結婚式をでっち上げる。一族総出で祖母に優しい嘘をつきながら、親族それぞれが複雑な想いを抱えながら結婚式までの日を過ごす物語。

アメリカに暮らすビリーの一家、日本に暮らす叔父の一家、中国に暮らす叔母の一家と祖母の妹といった、世代も生活環境も異なるそれぞれに、人生や家族や命への考えがあって、悲しみを抱えながらぶつかったり慰め合ったりする。そして、不思議な余韻を残してふっと終わる。

繊細で、優しい映画だった。暗くはなくて、笑っちゃうところもたくさんある。抑えた色味や、すっと引いた時の画面が美しくて、ざわついた気持ちであわただしく劇場に入ったのに、出る頃にはすっかり気持ちが整っていた。

監督のルル・ワンは中国系アメリカ人の女性監督なのだけど、中国の風景だったり文化風俗の描写がとても良くて、監督の風土への静かな愛情を感じた。風光明媚だったり雄大だったりゴージャスだったり洗練だったり、ということではなく、ごく普通の中国を、やさしい目線で撮っている感じ。

オークワフィナの繊細な演技が素晴らしくて、ハスキーで低めの声や、たまに見せるコメディエンヌらしい軽妙さも観ていて心地よかった。でも、もうコメディエンヌと呼ぶべきではないのかも。どんな演技もできる人なんだろう。ジェニファー・ローレンスみたいな存在感だな…と思ったりした。

それにしても、わたしはなぜか移民の、特に移民二世の物語に惹かれる。小説にせよ、映画にせよ。どうしてこんなに惹かれるのか、自分でもわからなかったけど、この映画を観て少し理由がわかった。

生まれも育ちも練馬区でございという顔をしているけど、わたしは生まれてすぐに父親の仕事の都合で統一前の西ドイツに行って、7歳のときに日本に帰って来た。年々ドイツでの暮らしの記憶は薄れているけど、人生の記憶はドイツから始まっている。そして自分の意思とは関係なく、文化も言語も気候も何もかもが違う日本という国に、なんだかよくわからないまま連れて来られた混乱の感触は覚えている。それが、親世代の人生を賭けた決断とはまた違う感覚で、複数の国にルーツを持つに至った移民二世の人たちへのシンパシーに繋がっているのかもしれない。

親は「帰って来た」と言うけど、幼いわたしにとって日本は初めての場所で、親戚も初めて会う人たちばかりで、どう考えても単に「来た」だった。日本語を話し、日本人小学校に通っていたのに、連れてこられた日本は未知の国。今こうして文字にしても、わけがわからないと思う。

作中でビリーが、「小さい頃の記憶はそんなにないけど、よくわからないままアメリカに行って、友達もいなくて何もかもなくなって、おじいちゃんが死んだことも教えてもらえなかった」と泣く場面で、そう、本当になんだかよくわからないんだよ、と思った。子供だったし昔のことだしそんなにちゃんと語れない、けれどわけがわからないまま子供は一度全てを失うんだ、って、思い出して泣けた。

移民及びその子女たちの体験に比べたら、わたしの体験なんて並べて語るレベルではないことは明らかだ。明らかなんだけど、幼いわたしの中に吹き荒れた混乱を、せめて自分ぐらいは「たいしたことないじゃん」と流さずに、「大変だったね」と言ってやりたいし、小説や映画に共感を求めるくらいのことは許してあげたいとも思うのだ。

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