短編『平行線のゆくえ』

 じいちゃんが死んだ。立派なじいちゃんだった。
海辺の田舎町の小学校の校長を二十年以上勤め上げ、退職してからも教え子が野菜を持ってかわるがわる尋ねてくるような人だった。大きく開けた口で「わはは」と笑う、太陽みたいな人だった。その孫である私は、そんなじいちゃんの素晴らしさを何一つ受け継いでいない。
 早朝のまぶしい光が車の窓から差し込み、小さなちりひとつひとつを金色に浮かび上がらせている。車の中に低く流れる朝のラジオと聞きながら、私は後部座席にもたれかかり、左側に広がる松林を眺めた。ニュースの合間に、運転席のお母さんが鼻をすすり上げる音が聞こえてくる。ティッシュを何枚も抜き取ったお母さんが、ちーんと鼻をかむ。一斉に光の中を埃が散らばり、拡散されて泳ぎ出す。重苦しい沈黙で満たされた二人きりの車の中で軽やかに舞う埃をにらみつけて、私は息を細く吐き出した。松林を抜ければ、もうじいちゃんちがある海岸通りだ。
 車を降りると、潮の匂いが鼻をつんと突いた。灰色のコンクリートの道路の向こうから波の音が聞こえてくる。上空に両手をつきだし、大きく背伸びをする。ついでに見上げた空は抜けるように青い。車の音を聞きつけたのか、家の中からばあちゃんが出てきた。
「ようきたねぇ」
 いつもの言葉を発したばあちゃんの顔は、迷子の子供みたいだった。お母さんがふらりとばあちゃんに近づいて両手を広げる。お母さんの震える身体を抱き留めたばあちゃんの手も、同じく震えていた。私は二人から目を逸らした。「海見てくるね」と言い残し、私は踵を返した。

 じいちゃんの家の目の前は海だ。道路一本を挟んで、定規で一直線に切り取られたコンクリートの波返し護岸の上に海が広がっている。ここに来る季節によって海は表情が全く違うけど、すべてを受け入れてくれるように感じるのはなぜだろう。私は海岸通の道路を渡り、海へ近づくとコンクリートにもたれ掛かかかり、海をのぞき込んだ。五、六メートル下には波消しブロックが重なり、かすかな白波がコンクリートの肌を優しく撫でている。五月の海は穏やかに煌めいていて、上空からはときおり風が海鳥の鳴き声を運んできた。
 海風を胸一杯に吸い込んで、大きく背伸びをした。こんなに身体が凝り固まったのは、三時間以上車に乗り続けたからだけではない。車の中でお母さんとの間に息が詰まるような沈黙が流れていたのも、今日このときだけではなかった。
 母一人子一人。うちはいわゆる母子家庭だった。幼なじみだったお父さんとお母さんは四年前に離婚し、お父さんはここの近くでやっていた床屋を畳み、家を出て行った。お母さんは私の手を引いて東北で一番大きな街に引っ越し、それ以来看護師としてがむしゃらに働いた。小学校三年生だった私は学校外の時間をほとんど一人で過ごした。常に背中にべったり張り付く寂しさの飼い慣らし方は徐々に覚えていった。初めは少ないながらもお母さんと過ごす温かい時間があったように思う。いつからか、なかなかこっちを向いてくれないお母さんを試すようなことばかり繰り返し、お母さんを思う心にだんだん暗いものが混じっていった。そして、決定的に私たちの関係が拗れたのは、入学早々、私が中学校に行かなくなってしまってからだった。
「あれ、君、学校は?」
 物思いに耽っていた私は、突然掛けられた声に驚いてちいさく飛び上がった。学校、と言う言葉にどきっとする。声の方に振り向くと、そこには一人の男の人が立っていた。二十五、六歳だろうか。手には横断中と書かれた蛍光の黄色い旗を持っている。
「ごめんね、びっくりさせちゃったみたいだね」
 男の人は穏やかな顔で笑うと、「もしかして田辺先生のお孫さん?」と聞いた。
「はい・・・・」
 田辺先生とはじいちゃんのことだろう。見事に言い当てられた私は、条件反射で頷いてしまってからはっとする。変な人だったらどうしよう。その焦りが顔に出ていたのか、男の人は慌てて「不審者じゃないよ!」と叫んだ。
「ほら、あそこの横断歩道!あそこで子供たちの横断の見守りをしてるんだ」
 と自分の後方の十数メートル先にある横断歩道を指さした。じいちゃんちの斜め向かいにあるその白い線をまじまじと見た。こんなところに横断歩道があるなんて、気がつかなかった。
「君のおじいさんにはいろいろとお世話になったんだ。本当に皆から慕われていてね。先日まで元気に畑いじりしていたんだけどね・・・・。君も急なことで驚いたでしょう」
 男の人が眉を下げて、「ご愁傷様でした」と私に向かって深く礼をした。私も慌てて礼を返したものの、なんと言っていいかわからなかった。
「私、涙が出てこなくて」
 金色の光に照らされた男の人が余りにも神妙な顔をしているのを見たら、私の口からは言葉が勝手にこぼれ落ちていった。
「じいちゃんのこと好きだったけど、涙が一つも出てこないんです。じいちゃんは立派な人だったけど、私は自分のことばっかりで・・・本当に嫌なやつです」
 なんで初対面の人にこんなこと話しているのだろう。そう思うと言葉尻はどんどん小さくなっていった。思わず俯き、拳を握った。じいちゃんが大好きだった。そのじいちゃんが死んだというのに、こんなときだというのに、学校をしばらく休めるという考えが頭をよぎった私は、なんて薄情者なのだろう。悲しむ権利さえないように思えてくる。
「でも君、すごく泣きそうな顔してるよ」
 その言葉に思わず顔を上げた。
「涙だって出ないこともあるんだよ。それは君が悪いわけじゃない」
「でも・・・」
そう言った私の表情を見て、おやおやというように男の人が眉毛をあげた。 
「納得いかないって顔してるね」と笑うと、横断歩道の方を振り返った。
「この道路で、昔事故があったの知ってる?」
 初耳だった。かぶりを振った私に、男の人が「そっか」と頷く。
「もう二十年前以上前になるかな。俺の姉がトラックに轢かれたんだ。小学校一年生で、学校に行く途中だった」
私は息を呑んだ。
「俺はそのとき五歳でね。姉がなぜ突然いなくなったのかわからなかった。死ぬ、という言葉は知っていたけど、理解出来なかった。いなくなって寂しかったけど、涙は出なかったんだ。両親や親戚はみんな泣いてた。俺と一歳しか違わない姉の友達もわんわん泣いてね。そのうち、涙の出ない俺はおかしいんじゃないかって思うようになったんだ。」
 男の人が微笑む。それが痛々しく思えて、私は思わず胸を押さえた。
「でもあるとき君のおじいちゃんが『悲しみ方は人それぞれだし、涙が出ないのはおかしいことじゃないよ。自分の自然な気持ちを大事にしていいんだよ』って言ってくれて。だから俺は、このままの自分でいいんだって思ったんだ」
 自分の気持ちを大事にして良い。それは私が一番欲しかった言葉だった。じいちゃんの声が、笑顔が蘇る。私は唇を噛みしめた。
「死んだ人だって、生きてる人の心の中で生き続けることが出来るんだよ。俺の姉だって、君のおじいさんだってね」
 まあ月並みの言葉かもしれないけどね、と言って男の人は静かに笑った。
「それにね、毎朝ここに立って子供たちの横断を見守っていると、海の向こうに姉がいるような気がしてね」
 そう言うと男の人はじっと海を見つめた。私も同じように海の方に目をやった。海は凪いでいて、日の光を浴びて水平線の手前が目が眩むほどに輝いている。
 頭に引っかかっていたわだかまりや罪悪感が優しい海風に吹かれて、溶けていくような気がした。身体のどこかのパイプに詰まっていたものが溶けだして、その奥から悲しみがするっと心に落ちてきた。目頭が熱くなってきて、私はあわてて目を閉じた。深呼吸して海の向こうを想像する。涙で滲んだ目の裏にじいちゃんの姿が浮かび上がってきて、揺れる。じいちゃんこんな自分勝手な孫でごめんね、全然立派になれない、弱い人間でごめんね。
 でもやっぱりじいちゃんはいつもの優しい顔で笑って、私に頷いてみせるのだった。

 涙が出ない、なんて思っていたのはお通夜が始まるまでだった。祭壇に飾られた写真の中のじいちゃんの満面の笑みを見た瞬間、堤防が決壊したように私の両目からは涙があふれ出し、立っていられないほどに泣きじゃくってしまった。
 洗面台の鏡の中を覗くと、充血して真っ赤に腫れた自分の目が見返してくる。私は真新しい制服のポケットの中から白いハンカチを取り出し、水道の蛇口を捻った。ハンカチを濡らし、目に当てる。少し目を冷やしたら会場に戻らなくてはいけないのだが、先ほどの大泣きで目立ちまくった手前、トイレを出るには勇気がいった。
 さすがにじいちゃんのお通夜という感じの弔問客の多さだった。ばあちゃんやお母さんは、対応でてんてこ舞いだ。そういえばさっき視界の端で、朝会った男の人が礼服に身を包んで目を丸くしているのが見えた。あんな話をしたのに、いざ式が始まれば大号泣をして見せた私をどう思っただろう。
 そのとき不意にトイレの扉の向こうに人の気配がして、私はとっさに目にあてたハンカチを取った。蛇口を捻り、顔を必要以上に伏せて一心にハンカチをじゃぶじゃぶ洗う。いかにも大泣きしました、と言う顔を、知らない誰かであっても見られるのは抵抗があった。後ろの気配を伺っていたが、その人が入り口から動かないので顔を上げた。
「・・・・お母さん」
 鏡の中に映ったお母さんの赤く腫れた目が私をまっすぐ見ていて、私の心臓はどきんと音を立てた。所謂『登校拒否』になってから私はいつも下を向いていたし、お母さんも俯いた私をのぞき込んで来ることはなかった。なので目が合うのがかなり久しぶりだった。お母さんはゆっくり洗面台に近づき、隣の蛇口を捻り手を洗い始めた。二つの水道から水の流れる音だけがタイルに反響する。私はどうしたらよいかわからず、俯いてハンカチを洗い続けた。
「・・・・・目」
 蛇口をキュ、と閉めた音に重なって聞き逃し、私は「え?」と顔を上げた。
「目、腫れてる」
 鏡の内側で、お母さんと視線がぶつかった。そう言ったきり引き結んだお母さんの唇にも、鏡に映る私の頬にも、緊張が色濃く漂っていた。
「お母さんだって」
 緊張に耐えられず、私は視線をハンカチに落とした。なんで学校に行かないの、と責め立てるお母さんに暴言の限りを尽くしまった大喧嘩以降、私たちの間には緊張が張りつめるようになってしまった。私が視線をはずしてしまえば、お母さんは静かに立ち去る。
「千春」とお母さんが呼んで、私ははっと顔を上げた。鏡の向こうから、お母さんの目が私をとらえた。何かを逡巡するかのようにお母さんの唇が開いたり閉じたりする。そして意を決したように大きく息を吸いこんで喉が動く。
 自分から距離をとっておきながら、いままでずっと、お母さんから歩み寄って来てくれるのを待っていた。もしかしたらやっと・・・。お母さんの唇がゆっくり開くのを、私は信じられない思いで見つめた。私は吸い込んだ息で胸を熱く膨らましながら次の言葉を待った。
「お父さんが来てるみたい」
 お母さんの言葉は、私の開きかけた心の扉の隙間にぶつかり、硬いタイルの床にころんと落ちた。大きく膨らんだ胸に小さい穴が空いて、そこからぷしゅう、と空気が漏れ出る。あっという間に空気は抜けきって、私の胸はぺしゃんこになった。私の落胆には気づかず、お母さんは言葉を続ける。
「見た人がいるみたい。千春、会いたい?」
 お父さんが出て行ってから四年間、一度も会っていない。会いたくないと言えば嘘になる。だけど、希望に沸いた心に大量の差し水をされたように、一気に興奮が冷めていた。体の中で熱い期待と冷たい諦めが混じり、攪拌されていく。気づくと、もう胸はいつもの冷めた温度だった。鏡の中から固唾を呑んで見つめるお母さんに、私は首を振って答えた。
「そう」
 と答えたお母さんの顔が奇妙に歪んで、私はぎくりとした。お母さんは「そろそろ戻りなさい」と呟くと、いつもの硬い顔をして、そのままトイレを出ていった。
 ひとり取り残された私は、呆然と立ちすくんだ。なんと答えればよかったのだろう。なんと答えれば、鏡越しではなく、直接お母さんと目を合わせることが出来たのだろう。私は手の中の白いハンカチをぐしゃぐしゃになるまで洗い続けた。

 翌日もすがすがしい朝だった。寝ずの番のために斎場に泊ったお母さんに荷物を届けるべく、私は早朝に家を出た。私の心の中とは裏腹に、見上げた空は抜けるように青く、風は穏やかに潮の匂いを運んでくる。今日の海も優しく凪いでいた。こんな日に空に上れるじいちゃんは幸せだな、と私は思う。
 昨日、トイレを出たきりお母さんは私に話しかけることはなかった。私たちの間に流れる不穏な空気にばあちゃんも気を揉んでいるようだった。今持っている紙袋は、仲直りしなさいというばあちゃんなりの気遣いなのだろう。久しぶりにお母さんとの間に穏やかな空気が流れたと思ったのは勘違いだったのだろうか。いつからお母さんとこんなに距離が開いてしまったのだろう。お母さんとは、ずっとこれからも平行線なのだろうか。
「おーい」
 声の方を見ると、昨日の男の人が満面の笑みでこちらに向かって手を振っていた。私は会釈をしてからゆっくり歩み寄った。今日もその人は黄色い旗を手に持ち、横断歩道の前に立っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日はありがとうございました」と礼をすると、「号泣してたね」と意地悪く返された。やっぱり見られていたか。つい尖ってしまう唇をごまかすように横を向き、「おかげさまで」と精一杯の強がりを言う。
「なんだか今日も浮かない顔してるね」
「そりゃあお葬式だし・・・」
「ふうん?」そういうと私の顔をじっと眺めてきた。この人はなんて鋭いのだろうか。端正な顔に見つめられると汗が出てきそうだ。私は観念して重い口を開く。
「お母さんと喧嘩みたいになっちゃって。うちのお母さんとお父さん、四年前に離婚してるんです。それで、ずっと会ってなかったお父さんが昨日お通夜に来てたみたいで。会いたいかって聞かれたから、ううん、て答えたら、お母さん怒っちゃって。もう、訳わかんないです」
「う~ん。そっかぁ・・・」
 男の人は「難しいよねぇ」といって唸っている。
「お母さんは、私とお父さんを会わせたかったのかな。ときどき、お母さんは私のことどう思ってるのかわからなくなります。私がいなかったらお母さんはもっと楽だったのかな、って思うこともあります」
 離婚したときに私を引き取らなければよかったと思っているんじゃないだろうか。その考えはことあるごとに心の奥から浮かび上がり、私を苦しめていた。そしたら髪の毛を振り回して働く必要もなかったし、自分自身のことを大事に出来たはずだ。理由もないのに学校に行かない娘に、頭を悩ますこともなく。
「これは俺の予想だけど」
 俯いた私に男の人は諭すように言葉を続ける。
「お母さんは、君がいたから踏ん張って来れたんじゃないのかな」
あとはお母さんに勇気を出して聞いてごらん。そう言って男の人が私の頭をぽんぽん、と撫でた。

 斎場への道をゆっくり歩きながら、私はさっき男の人の言葉を繰り返し反芻していた。私がいたから頑張って来られた。そうなのだろうか。頑張らざる負えなくなったではなくて?いろんな思いがぐるぐる回る。
 斎場の駐車場に差し掛かったとき、ふと海の方に小道が続いているのに気がついた。松の木の間に顔を覗かせた灰色のセメントレンガは斎場の建物の向こうへと伸びている。頭を冷やそう、そう思った私は小道へと足を向けた。
 海に突き出した岬に立っているこの斎場は、風あたりが強い。両側を松林で挟まれてはいるものの、木陰で受ける海風は少し冷たくて、私は首を縮めた。入学式のために短く切りそろえた髪が、このときばかりは恨めしい。首元に手を回し、うなじを擦る。小学校からの仲良しの友達と一緒にテニス部に入ろうと約束していた。友達とうまくいっていないわけでもないし、いじめを受けているわけでもない。四月から変わったことと言えば、中学に入ったことと、お母さんが病院の夜勤を始めたくらいだ。お母さんの重いため息を思い出す。もしかしてお母さんは、私をお父さんのところにやろうとしているのではないか。だから会わせようとした?
 そんなことばかり考えていた私は、ベンチに座る喪服の背中に気づくのが遅れてしまった。私の足音で丸まった背中がぴくりと動くのを見て、私はなぜか予感した。息を呑む。あれは。
 ゆっくりと顔をあげ、振り向いたのはお父さんだった。驚きに大きく開かれた目の周りには、記憶になかった細かいしわが刻まれていたものの、間違いなく四年ぶりに会うお父さんだった。お父さんは口を小さく開き、言葉がでないほど驚いていた。それは私も同じだった。
 永遠にも感じられた驚愕の時間は、実際には二,三秒のことだったのだろう。お父さんはゆっくり立ち上がると、小さく「千春」と呟いた。
「・・・お父さん」吐き出した言葉は、震えて消え入るようだった。お父さんは「うん」といって小さく笑った。その笑顔は、いつも私の頭を撫でながら微笑んだときのものと一ミリも違わず、私の胸は懐かしさでじんわりと温かくなった。
 足を踏み出す。ずっと会いたかった。急にいなくなって寂しかったよ。でもその伝えたかった言葉たちは、私の口から出てくることはなかった。
「パパ!」
 私が言葉を発しようと息を吸い込むより早く、そう叫んで松林から小さな女の子が飛び出してきた。雷で打たれたように動きを止めたお父さんの足下に駆けてきて、手を広げる。
「パパ、だっこちて」
 甘えるようにぴょんぴょん跳ね、足にすがりつく。返事をしないお父さんに「どうちたの?」と首を傾げる。二歳くらいの、長い髪の毛を三つ編みのお下げにした、可愛い女の子だった。
 私は背中を向けて走り出した。松林を抜け、駐車場を駆け抜ける。いくら耳を澄ましてみても、お父さんが私の名前を呼ぶことはなかった。
 斎場を飛び出して、左に曲がり、右に曲がり、めちゃくちゃに走った。だけど息が上がるころにたどり着いたのはやっぱりじいちゃんちの前を通る海岸通りで、私はほっとするやら情けないやらでため息を付いた。
 膝に手を付いてはあはあと息を整えながら、私は小さく笑った。お父さんのところにやられるかもしれないなんて思っていたが、お父さんの所にも、私の居場所はなかったんだ。目からぽたぽたと落ちた滴が、コンクリートの地面に染みを作る。胸が引き絞れるように苦しくて、嗚咽が止まらない。私はとうとう地面にしゃがみ込んで、本格的に泣き出した。みんな勝手だ。勝手に死んだり、勝手に怒って目も合わせてくれなかったり、勝手に私じゃない子のお父さんになる。大人はいつも勝手だ。
 わんわん泣いていたら、「大丈夫?!」と焦った声が聞こえてきて、私はのろのろと顔を上げた。横断歩道のあの男の人が私をのぞき込んでいた。
「どうしたの?何かあった?」そう優しい声で聞かれて妙に安心した私は、男の人が泡を食っておろおろするくらいに本格的に泣き始めたのだった。

「こんなところに神社があったんですね」
 そう言った私の声はさっきまでの大泣きでひび割れたようだ。
「うん。いいところでしょ」と答えた男の人の声には笑いが滲んでいる。
天下の公道で身も蓋もなく男の人にすがりついて泣いてしまった。道行く人がいたのなら、痴情のもつれかなにかに勘違いされたかもしれない。泣く私の手を引いて連れてきてくれたのが、この小高い山に立つ小さな神社だった。コンクリート製の鳥居を潜り長い石段を昇って、小さく古ぼけたお社に着くころには涙は止まっていた。振り返って見た石段の下には、はるか眼下に輝く海が広がっている。私たちは石段の一番上の段に二人で並んで腰を下ろした。
 海から石段を駆けのぼってきた風が心地よくて、私はおおきく息をついた。石段の両脇は杉や松の木の緑に囲まれ、緑のトンネルといった風情だ。
「落ち着いたみたいだね」
「はい」
 穏やかに笑う彼に、私は「さっきお父さんに会いました」と切り出した。
「でも、小さい子と一緒にいて。その子が『パパ』ってお父さんのこと呼ぶ声を聞いたら、私すごくショックで、つい逃げて来ちゃいました。私とお母さんが今こんなんなのに、私たちを置いて一人だけ幸せになった思うと裏切られたような気持ちになってしまって」
彼が「うん」とちいさく頷いた。
「実は私、学校をずっと休んでいるんです。」
 手のひらに汗が滲んできた。口もからからに渇いてくる。
「いじめられてるとかじゃないんです。中学に入学して一週間が経ったころ、めずらしく風邪を引いて。高熱が出て、お母さんも仕事に行けなかったくらいで」
 熱にうなされる間、ずっとお母さんの気配を感じていた。身体はつらいはずなのに、心底安心できて嬉しかった。
「でも、熱も下がって風邪が完全に治っても、朝起きれなりました。具合が悪いわけじゃないんですけど、何もやる気がしなくなって」
 新しい場所で新しい生活を始めてから何年もの間張り続けていた緊張の糸が切れたようだった。起き上がることでさえ決心をしてから三十分もかかる。何かをしようと思っても力が沸いてこない。もう頑張んなくてもいいんじゃない、頭のどこかから声がするようになった。
 目に見えて生活態度が崩れていった私は、遅刻や早退が多くなった。担任からの電話で事態をしったお母さんは、誰に頼ることもできずに頭を抱えたのだろう。
「最初はお母さんも心配してくれました。でもそのうちサボり癖だって言われました」
『絶対学校に行かないから!』と泣き叫ぶ私を、お母さんはビンタで黙らせた。『頑張らないと生きていけないの』というお母さんの言うことは頭ではわかる。でも、その道を選んだのはお母さんじゃないか。私が選んだわけじゃない。そう思ってしまってからはもう、お互い意地の張り合いになった。
「私、本当に中途半端です。どうしたらいいのかわからない。このままお母さんとは、ずっと平行線かもしれない」
 寄り添うことも分かり合うことも出来ずに距離を置く私たち二人は、行儀良く並んだ平行線のようだ。負の感情でがんじがらめになってどこへも行けず、二重らせんになってその場でぐるぐる周り続けることしかできない。
「平行線か」
 ぽつりと彼が呟いた。私は隣の顔を見上げた。彼は足下から吹き抜ける風を気持ちよさそうに受けながら、眼下の海を見つめていた。
「知ってる?地球上で引かれた平行線をずっと伸ばしていくと、どこかで交わるんだよ」
 その言葉に私はぱちぱちと目を瞬いた。平行線が、交わる?首を傾げた私に、彼は頷いた。
「球面上で引かれた線は必ず球体の直径になる。違う点から引かれたもう一つの線も直径になるわけだから、その二つの線は球体上のどこかで交わるんだって」
 頷いた私はきっと三分の一も理解していないだろう。
「地球って球体でしょ?だから、地球上で引かれた平行線は必ず交わるんだよ」
 そう呟いた彼の目が、優しく細められ、私に注がれる。
「だからね、どれだけ平行線に思えても、それをずっとずっと伸ばしていけば、海の向こうできっと交わってる。君と、君のお母さんも。だって、この地球で、生きてるんだもの」
 頭の中で、がちがちに固められて渦を巻く二重らせんが、ぱらりと解かれるのが見えた。きらきらとひかるその線たちは、私の足下から石の急な階段を下へ下へ走っていく。やがて海へ到達した二本の線は、光る水面の上をどこまでも走り、金色に光る水平線の向こうへと消えていった。
 心臓が強く脈打つのを感じて、胸の底から熱いものが沸き上がってくる。身体が熱くなっていく。
「きっと大丈夫だよ」
 そう言うと男の人は私の頭をポンポンと撫でた。熱く湿った手のひらの神々しさに、目頭が熱くなってくる。私は唇を噛んで必死に何度も頷いた。
 石段から立ち上がって深く礼をした私に、男の人は「頑張って」と笑いかけてくれた。もう一度礼をして、石段を駆け下りる。一番下まで降りると、石段の一番上に腰掛けた男の人が大きく手を振っているのが見えた。それに手を振り返し、私は駆けだした。
 海岸通りを走る私を、海のきらめきが、水平線が、ぽっかり浮かんだ平和な雲が追いかけてくる。海風を大きく吸い込んで、私はスピードを上げる。
 今は平行線でも。いつか気持ちが届く日まで、絶対に歩みを止めない。いつまでも温かい過去に座り込んで、ぐるぐるその場で回り続けることはしない。それを解いて、ずっと未来に引き延ばして。交わるときまで進み続ける。
 軽くなった心で、私はいつまでも走り続けることが出来るような気がした。

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 第217回コバルト短編小説新人賞に応募し、もう一歩の作品に入った短編小説です。
 小説を書き始めた一年前、まずは短い話からだなと思い、まずは原稿用紙5枚ほどの散文に挑戦してみました。それは小説とは言い難いただの文字の連なりだったのですが、その次に書いたのがこの『平行線のゆくえ』です。
 原稿用紙にすれば30枚ほどの短い話なのですが、どう書いたらいいものかさっぱり分からず、さんざん迷い設定を何度も変え……約一ヶ月の時間をかけてなんとかまとまった時には、主人公と一緒に海沿いの道を走っているような気がしたものです。