米やめました⑤ 禁煙セラピー
両親とは別居しており、そもそも親子関係がさほど良くないので、当初は黙っていたのだが、正月に顔を合わせた際に、食事療法を始めたと話すや否や、待ってましたとばかりに家系だ遺伝だ今更何をやっても無駄だ、今すぐ諦めろ等々の呪いの言葉を父親から存分に浴びせられた(両親ともこういう感じなので、とても同居は出来ない)。
予め予想していたことではあったが、しかし生涯をかけてこの人の鼻を明かすという楽しみができた。実は15年前にも似たようことがあったのだ。
私は21歳から9年間喫煙をしていたが、止めるきっかけはタバコの値上げと一冊の本である。結婚直後の当時、私は氷河期世代の例に漏れず派遣社員として暮らしており、困窮とは言わないまでも経済的に厳しかった。
妻の勧めでExcelに家計簿をつけていたものの、通帳の残高は減る一方である。無駄な出費はないかと家計簿を洗い直してみた時に、ふと思い当ったのがタバコだった。
当時は1箱280円で(現在の1/2程度であったことを考えると、昨今の高騰ぶりは非人道的である)、1日1箱強を吸っていたので月の出費は1万円弱なのだが、低所得者にとって少なくない数字である。迷っていたところに妻が持って来てくれたのが、アレン・カー『禁煙セラピー』だった。
ニコチンの離脱症状の機序など、確かに非常に参考にはなったのだが、結果的に禁煙に成功した後でも、本書の記述を全面的に信用したのではなく、むしろ疑っていた。今となっては単に重度喫煙者であったがために、論旨を理解し切れていなかったのだろうと思う。
さて喫煙所に現れなくなれば、職場の同僚にはいとも簡単に禁煙がバレて無駄だ諦めろと諭される。禁煙の是非についてはわけのわからない詭弁がつきものであり、(なぜか)論理学の教科書を片手に、それらへの反論を組み立てているうちに、うっかり禁煙できてしまったというのが真相だ。
「タバコ味のケーキ」という逸話がある。タバコがおいしいならばタバコ味のシーズニングが存在するはずだが、そんなものは存在しない。よってタバコがおいしいというのは嘘である。気合の入った喫煙者だろうと嫌煙家だろうと、こんな穴だらけの議論に騙される人はそう多くはないだろう。
また、誰が言ったか「増税を理由に禁煙するのは最も下らない人間だ」という物言いも聞かされたが、何がどう下らないのかという説明はついに聞いたことがなく、今ではこれこそが下らない印象操作だったとしか思えない。
擦った揉んだを経て最後の一本を吸ったのち、本当に吸わなくなってしまい、それを知った父も気が付けば禁煙していた。父の場合は禁煙後もしつこくミントを齧っていたが、代替品の使用は常にリバウンドの危険を伴うのでよろしくない。とはいえそれもいつの間にか乗り越えたようだ。
私はいざとなれば自己洗脳ができてしまう人間らしい。ところで『禁煙セラピー』を持ってきた本人は、15年後も相変わらず今も電子タバコをのんでいる。妻は意志が弱いのか、それとも強固な意志を持っているのか。
私は意志の持ち方の問題ではないと思う。出来る人は気づいた時に遅かれ早かれ実行してしまうし、現状を変えたくない人は当然に現状を変えない。「水を飲みたい馬が水を飲む」(夏井睦『最終解答編』)のであって、水を飲みたくない馬は愚かでも何でもなく、ただ水を飲みたくないだけなのだ。