#3 保育士の寄り道 《フィリピン留学〜オーストラリアへ》
保育士人生に寄り道あり
一度諦めた保育士へ再就職したかと思いきや
ふと降りてきた感情は
”人生一度きり、やりたいことを「今」やろう”
「留学」という突拍子もない出来事。
導かれるように私の人生は進んでいく。
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保育士から一転、学生へ
ワーホリは30歳まで。
私を動かしたのは紛れもなくこの制限。行くぞ!と決めた時は29歳。ギリギリだった。
なぜその制限を知ってたかと言うと、私の姉も同じようにワーホリ制度を利用してオーストラリアへ留学したからである。
(後に姉はワーホリ→学生を経てオーストラリアに永住することとなった)
退職も決まり、オーストラリアにすぐに行くかと言うと、ちょっとだけ遠回りをすることになる。
語学取得のためフィリピンへ
なぜフィリピン?となるのであるが、フィリピンへ向かったのは語学学校へ通うため。
というのも、現地オーストラリアで語学学校へ通うのはコストがものすごくかかる。加えて授業もマンツーマンではなくグループがほとんどだったので当時英語が全くわからない私にとっては適した環境ではないと判断。
一方、フィリピンの語学学校はオーストラリアの学校の三分の一のコストで通うことができる。そしてなんと言ってもマンツーマン。授業時間も内容も比べ物にならないくらい充実していた。
フィリピンはもともとアメリカの植民地であったため、英語教育が一般的で英語を話せる人がほとんど。アメリカ訛りはあるものの勉強するには問題ない環境。
フィリピンは行ったこともない場所であったが、留学エージェントの人も驚くスピードで語学学校も決めたのである。
そんな感じで私の留学はとんとん拍子に進んでいった。
そして現地入り
フィリピンでは3ヶ月間みっちり語学勉強に明け暮れた。
恥ずかしながら小さい時から勉強が大嫌いでほとんど勉強なんてしてこなかった人生。
でもこの留学は自分で決断した勉強をする機会。自分で決断したことには責任感が伴うことを肌で感じたのである。
私の英語レベルは底辺だったけれど、なんとか先生が話していることを理解できるまでになった。そして言葉が理解できることでフィリピン人の先生とコミュニケーションも取れるようになり、どんどん楽しくなっていった。
何よりもフィリピン人(フィリピーナ)はとにかく人懐っこくてハッピー。
毎日の授業が楽しかった。私の底辺すぎる英語レベルに笑いながらも「あなたはハッピーでいいわね!」と励まし続けてくれた。
後に知ったのは私が選んだ語学学校はストイックなカリキュラムだったこと。だから大変だったのか・・・と思いつつも基礎の英語を叩き込んでもらえてそれはそれで私にとってはいい選択だった。
こうしてフィリピンでの留学を終えて、一度帰国することとなった。
オーストラリアへ
そして、ついにオーストラリアへ。
私はその時、30歳になっていた。
オーストラリアは2度目であったが、旅するのと暮らすのでは全く印象が変わってくるもの。2度目のオーストラリアで心からオーストラリアが大好きになった。
フレンドリーなオージーに、人との関わりで心安らぐのを感じた。
渡豪してから最初の1ヶ月ほど姉家族の家でお世話になっていた。
二人の甥っ子たちもいたことで子どもがいる生活にやはり幸せを感じていた。
お世話になっている間に仕事を決めたり、住むところを決めたり、いよいよ海外での生活をスタートさせる。
やっぱり、保育士を選ぶ人生
オーストラリアに渡った頃は、漠然と現地でしかできない仕事をしよう!と思い描いていた。具体的に何かと言われたら困るのだが、とにかく現地の人と話せる仕事が理想だった。
そんな中、どんな仕事をしようかと求人を眺めてみるものの、私の目に飛び込んでくるのは ”オーペア” という文字。
そして興味を持つのも、"オーペア” という文字。
オーペアというのは、住み込みのベビーシッター。
家賃、光熱費、食費は一切かからず、その代わりに住み込みで子どもの面倒を見るというもの。
なんせオーストラリアは物価が高い。普通の仕事では家賃を払えるほどのお給料をもらえる保証もないし、実際友達は家賃を稼ぐために必死になって働いていた。
それを考えると私にとっては一石二鳥、いや二鳥どころではすまされないほど好条件でぴったりの仕事だった。
子どもとは関係ない仕事をしてみよう、なんていう当初の願望はすっかり粉々に打ち砕かれ、オーペアというがっつりと子ども関係のお仕事につくのである。
子どもとの生活を想像してウキウキしている自分は心底子どもが好きなんだと思い知らされたいい思い出。
オーペア生活
そうしてオーペア生活が始まった。
1年間のオーストラリア滞在でお世話になったご家庭は2家庭。
シドニーで6ヶ月間。ゴールドコーストで4ヶ月間。
どちらの家庭もオージーと日本人の夫婦の子どもたちを面倒見ていた。
子どもと一緒に住むだなんて日本では考えられないもの。
「おはよう」と「おやすみ」ができて本当の家族の一員のように過ごすのだ。
最初は家族以外の人たちと過ごす生活にそわそわしていたけれど、少しずつ慣れていった。そして一人ではないという海外生活にすごく安心感があった。
子どもたちはすごく可愛かったし、すぐに心許して馴染んでくれた。子どもたちのそういう存在にどんな時も私は救われているな、と改めて子どもの存在価値を見出せた気がする。
オーペアで働く時間以外では、日本食レストランでバイトをしたり、現地の洗車場で働いたりもした。英語環境で働くという大きな課題もあったけれどそんな日々も全て勉強で貴重な経験となった。
帰国を前に人生のどん底へ
明るくていつも笑顔でいること、そして常に前向きなのが私の取り柄であるが、そんな私にも人生のどん底を味わうこととなる出来事。
それは頸椎ヘルニアの発症。
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帰国の少し前はゴールドコーストの洗車場で働いていた。
ある日突然、仕事中に左手の痺れを感じる。最初はなんだろう?と感じていた程度だったが、それからというもの今度は左腕が上がらなくなると同時に、左の肩甲骨に痛みが伴うようになった。
痛みのレベルはどんどん上がっていき、手の痺れも増す一方。ひどい時には左手で持つナイフがカタカタ痙攣して私の体は一体どうしてしまったんだろうと恐怖を感じた。
そしてその得体の知れない恐怖はどんどん膨らんでいき、私の体を支配し始めた。
怖かった。毎日痛みに耐えながら、この体はどうなってしまうんだろうと不安しか頭の中になかった。
そして、とうとう仕事にも行けなくなってしまった。
せっかく手に入れた現地の仕事を失ったことで私は家に塞ぎ込むようになってしまった。
日々痛みと闘い、私はどうなってしまうんだろうという不安で毎日毎日泣きながら過ごした。
塞ぎがちだった私を連れ出してくれたのは、オーペアでお世話になっていたご家族。いろんな所へ連れて行ってくれた。
そして、子どもたちは自然の中で育った元気いっぱい自由奔放の姉弟。
特に弟はやんちゃでその天真爛漫さが私の塞ぎ込んでた心を満たすオアシスのようだった。
きっと一人で暮らしていたら私の体も心もだめになっていただろう。
支えてくれる人たちがいたからこそ、私はその後の治療、メンタルケア全てに立ち向かうことができた。
そしてこの出来事は私の人生の大きな大きな転機となった。
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