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#4 保育士人生にドン底を見た《セラピーとの出会い、そして希望の虹》


人生のどん底


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オーストラリアに滞在中。

留学生活もあとわずか、という期間にどん底に落ちた。



思えばこの時人生で初めて「挫折」というものを味わった。


"わたしはもうだめだ" と人生で初めて感じた瞬間。


そんな挫折からの立ち直りは、今思い返すとほんの一瞬の出来事だった。


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帰国を目前に


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人生ドン底の挫折を味わったその頃はまだゴールドコーストでオーペアの家庭にお世話になっていた。

オーナーの勧めもあり、とうとう私は現地の病院を訪れ、受診を開始。


何を隠そう、私は医者が苦手だ。



昔から病院に行くだなんてとんでもないことがない限り行くことはなかったし、今の時代ではあり得ないであろう父の根性論の教育が私の中に根付いており、"根性で治せ"という教えはずっと守られてきた。

なので病院に行くことに躊躇していた。

しかし得体の知れない痛みの恐怖と周りの勧めもあり、現地の病院へ受診することとなった。



余談ではあるけれど
不幸中の幸いにも私は海外滞在中の保険に入っていた。

オーストラリアへ渡る前、当時の私にはあまりにも高額な保険。入るか入らないかで直前まで悩みに悩んだ結果、なけなしの手持ち金で払った保険料だった。

それがこの時役に立った。
毎日のように治療へ行き、現地の日本人スタッフによる翻訳、理学療法などなど支払った保険料以上の治療費がかかった。(通院、理学療法、投薬、現地スタッフの派遣など)

私はこの一件で保険の有り難みを身をもって経験した。

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CTやMRIも行い、どこからくる痛みなのか根本を探ることとなった。
病院にあちこち行き、医者をたらい回しにされ、結局たくさんの病院を行って診てもらったが、行く先々で別の診断名を告げられ原因はわからなかった。

そしてどこからくる痛みなのかも分からなかったため、いくら治療をしてもいい方向へは進まなかった。


毎日のように治療に通っているのにも関わらず一向に減っていかない肩甲骨の痛みに加え、手の痺れも増し"この痛みは一生治らないんじゃないか…"という恐怖に支配され始めていた。

"このまま一生働けないのかな…" 
"一生こんな痛みと生きていくのかな…"

そんな不安な思いだけがぐるぐると頭の中に漂い続け、怖くて怖くて仕方なかった。



そして様々な治療を試し、経過観察で再び病院へ訪れた際。

医師が私にこう告げた。


"それは一生治らないよ。一生痛み止め飲んでいくしかないね" と。



それを聞いた瞬間、

私は病院の待合室で周りの目なんか気にせずわんわん泣いた。


今思うとその時完全にメンタルが崩壊した。

"もう希望はない"と宣告されたように人生が音を立てて崩れてしまった。
私の感情は真っ白、そしてスッカラカンになってしまった。


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それからというもの以前にも増して家に閉じこもるようになった。

毎日毎日泣きながら部屋で1人過ごした。


"なんでこんなことになってしまったんだろう… "
"なんで私が… "
"なんで今なんだろう… "


同じような悲観的な感情しか湧いてこなかった。



その時に人生で初めて、泣きながら日本にいる母に電話した。

私は小さい時から強がりで一度も弱音なんか吐かず人前で泣くことが嫌いだった。だけどその時ばかりはなんの躊躇いもなかった。母に「もう帰りたい」と電話口で泣きわめいた。

母はいつもと違う私の様子に困惑しながらも「帰っておいで」とだけ優しく言ってくれた。


いつも能天気で明るくポジティブな私はもうどこにもいなくなってしまった。




ヒプノセラピーとの出会い


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医師に告げられた一生治らないという宣告を受け、完全にメンタルが崩壊した私は家から出ることもほとんどなくなった。


そんなある日、塞ぎ込む私を見かねてオーナーが私に話してくれた。それは日本では馴染みのない催眠療法(ヒプノセラピー)というもの。


日本では「催眠術」と言われるものでテレビで見る完全にエンターテイメントの世界。私にとっては現実とかけ離れているものだった。

そんなものが現実の世界に存在するだなんてにわかに信じられなかった。


オーナーの日本人の友達が現地でヒプノセラピスト(催眠療法士)をしていて、その方が遊びに来るということでその人のヒプノセラピー受けてみたらどうかと提案してくれたのだ。


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私は悩んだ。その頃は私にとって目に見えるものが全てで催眠療法なんて空想の世界だった。

催眠術でしょ・・?胡散臭いし・・嫌だな・・

そんな感じだったのだがオーナーの好意を断るのも気が引けたし、折角私のために話をしてくれたのだからということで、ヒプノセラピーを受けることとなった。


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セラピーを受けたのは自宅のリビング。

私とヒプノセラピストだけの静かな空間の中、セラピーは始まった。


セラピー中、私は大好きな海の中にいた。

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ただただ大好きな水の中に漂い、フワフワ浮かんでいた。そんな中に身を沈め不思議と涙が止まらなかったのである。


どこからくる涙なのかさっぱりわからなかったけれど

不安や焦り、恐怖、全ての感情を洗い流してくれたと言ってもいいほどセラピーが終わる頃には負の感情が消えてスッキリとしていた。


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セラピーを受ける前は「催眠術」というどこか怪しい・・・というヒプノセラピーに対してのバリアがあったので受け入れられなかったのだが、オーストラリアでは催眠療法は保険適応もあるほどの立派な治療である。


オーナーの奥さんもお父さんを亡くした時に塞ぎ込んでメンタルのバランスが崩れてしまったらしいが、ヒプノセラピーをして立ち直り前向きに過ごすことができたという。

そして女性は出産時に陣痛緩和のためヒプノセラピーをする人もいるとか。

その時は信じられなかった。セラピーが心に作用することなど知る由もなかった。


振り返ってみるとセラピーを受けてからというもの、少しずつではあるが前向きになれ、希望を持てた。

思い返せばあのセラピーは私にとってすごく意味のある出来事だったのかもしれない。


セラピーとは心を癒すことなんだと私は後になって気が付いた。

あの時は体が感じている痛みに加え、痛みに対する恐怖や不安、焦り、孤独、色んなものを感じて心がついていかなかった。

そんな負の感情はセラピーによって少なからずその感情を捨てるという作業ができたのだと思う。


それからというもの、ヒプノセラピーと出会ったことで全てが好転していった。


お世話になったオーナー、そして元気をくれた二人の子どもたち、初めて出会った私にも無償でセラピーをしてくれたオーナーの友達にも心からの感謝している。きっといつか恩返しに帰りたいと願わずにはいられない。



帰国目前、シドニーへ


痛みはまだまだ居座り続けたが、ヒプノセラピーのお陰もありメンタルは少しずつ回復していった。

そしてゴールドコーストの生活も終わりを告げ、一度シドニーに戻り日本に帰国することとなった。

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シドニーには姉家族がいる。シドニーの街並みが飛行機から見えた時にはそれだけでホッとした。帰れる場所があることに孤独を感じずに過ごすことができたのは本当に有り難かった。


信頼できる家族がいる。かわいい甥っ子たちもいる。どれだけ心強かったことか。


保育士である私にとってどこにいても子どもの存在があるのは一番の薬だった。屈託のない100%ありのままの姿にいつもいつも救われた。


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この時、やっとホッとできた。心からホッとできた。

私は孤独ではないし、大切な家族がいる。家族のありがたみや安心感は何にも変えがたいものだと改めて思った。



希望の虹を世界の中心で


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私がシドニーに戻ってきたのには理由があった。

それは体を壊す前から計画していたエアーズロックへの帰国前の最後の旅。

オーストラリア留学に来たからには誰もが行きたいと願う場所。


直前まで悩みに悩んだ。

なんせこの痛みを背負った体で行けるか、ということ。行ったとしてもトレッキングがほとんどで今の私の体の状況ではキツいのではないかと思い、諦める方向でいた。


でもやはり、行きたかった。私の中の感情は "行かなきゃ!" と叫んでる。

私は直感で生きてきた。だから行こう、と決めた。

行くだけ行って、向こうでのんびり休んでもいいじゃないかという考えに行き着いた。


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重たいバックパックを背負って"大丈夫かな・・・"と不安な出発。

不安も大きかったが、ずっと行きたいと願った場所に行ける喜びもあった。

留学前から楽しみにしていたエアーズロックをこの目で見られるのだ。不安と期待の感情は交互にやってきた。



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念願のエアーズロック。

広大な土地にポツンと佇むその存在感はすごくエネルギーのあるものだった。この地に降り立っただけでもひしひしと伝わるパワーはこの場に行かなければ感じられないものである。



そして私はこのウルルで希望の虹を見た。


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後から聞いた話だと、ウルルは砂漠地帯。滅多に雨なんか降らないのである。

それを知らなかった私は雨が降ったことになんの感情も抱かなかった。

そして雨が降ったことも奇跡だが、その後にはもっと素晴らしい奇跡が起こった。



雨が降ってきたことでエアーズロックに沈む夕日は諦めていた夕暮れ間近。

突如雨が上がり、雲間から差し込む光はピンクのような紫のような幻想的な色彩。


そして現れたのはエアーズロックにかかる二本の虹。


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目を疑う光景に言葉が出なかった。美しすぎて、息もできないほどに。


私はこの地に行って正解だった。

この景色に出会えたことは" 諦めないで "と背中を押されたようで身体中からパワーがふつふつと湧いてきた。


大袈裟なことかもしれないが私はこの虹のお陰でもう一度人生をやり直そう、前向きに出直そうと心に決めたのである。


今でもこの虹を思い出すたびに初心に戻るような感情と、苦しかった日々を乗り越えて今、自分らしく生きていることに沸々と感謝が込み上げて、生きる希望を再確認できる。


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人生を諦めても何も意味がないということ。

前向きに生きてこそ希望を見出したり、夢を実現しようと奮闘したり、成長につながっていくということ。


この地に行けたことに心から感謝しているし、その時の環境を後押ししてくれた全ての出来事や周りの人にも感謝でいっぱいである。


あの虹からもらったメッセージは今も大切に私の心の中の飾ってある。



大切な友達の存在


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シドニーに戻りたかった理由の一つは、大切な友達に最後に会って感謝を伝えたかった。


私の英語はリスニング専門で話すのは苦手だったけど、私の拙い英語にも耳を傾けてくれ、私を一人の「人」として見てくれた大切な存在。

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生まれた国も言語も年齢もバラバラだったけど、互いに尊重し合って関わりをもてることが何よりも嬉しかった。


彼らの前ではありのままの姿でいられる自分がいた。

化粧をして繕わなくても、誰から言い始めたわけでもなく靴を脱いで裸足で歩き回れる環境もその中に本来の私がいて、自然体でいられた。それがすっごく心地良くて、心はいつも穏やかでいられた。


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私を受け入れてくれて、優しくしてくれて、私の存在そのものを肯定してくれる彼らとの時間は私の価値観にも大いに影響を与えてくれた。


今でも彼らを思い出すし、彼らを思い出す度に感謝しかない。この出会いは人生の宝物となった。


一番に支えてくれた家族の存在


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シドニーの姉家族。すごく心配もかけたし、お世話にもなった。

当時はお金がなかったから、本当に本当に色んな意味でお世話になった。


シドニーにいた頃は毎週末は家族でモーニングに行っては、義兄にご馳走してもらっていた。

私はお金がないことに負い目を感じて義兄に「いつもごめんね」と言うのだけど、彼は「いいんだよ、君は家族なんだから」と嫌な顔一つせず、当たり前のように私の面倒まで見てくれた。


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そして姉は私の一番の心の支えとなってくれた。

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小さい頃から仲良しの姉。

姉がそばにいてくれるだけで私のメンタルは安定していった。「ずっといてくれていいよ、日本に帰らないで」と言ってくれた姉。私が姉を心から信頼しているように、姉も私を心から信頼してくれてお互いに支え合いながら過ごしてこれたのだ。



そして甥っ子たち。

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こっちの事情なんて気にもせずうるさく喧嘩したり、「遊んで〜」とかまって攻撃をしてくる。そんな姿が一段と愛おしかった。

私の感情は塞ぎ込んでいても子どもたちはいつもと全く変わらないのだ。それが有り難かったし救いでもあった。


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留学期間は、すごく充実してた。

それと同時に、人生で初めて挫折を味わった。


でもその挫折は今となっては私の大切な経験と更なる成長へのステップだった。

だからあの時の痛みには感謝している。

今もまだ残るこの痛みは私の体調のバロメーターになっているから。


挫折は成長。

大切なことを学んだ貴重で濃い1年間の留学期間だった。


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