失って気付く虚無


J-POPとかの歌詞にありがちな「失って初めて大切だということに気付いた」というセリフはなかなか呑気だなと思う。

失ったことそれ自体に気付くよりは、最初から失われていた事実に意識的になったというパターンの方が多い気がする。

人間は、失われている状態が想定できる生き物であるがゆえ、いつでも欠落を作り出しているとも言って良い気がする。

失われたものは実は最初から手にできなかった何かであり、手にしたと勘違いしたものであると同時に、その穴を埋めることが可能なものの想定を作り上げたからこそ生まれてきた空白ではないか。

だとすれば結局のところ、その穴を埋めることは無理だということになる。ぽっかり空いた穴を埋めることは不可能なのに繰り返し追い求めるのか。

そのような幻想を追い求めるのが愛だとしたら、目の前で繰り広げられているドラマティック的なあらゆる物語は実に下らないなと冷めてしまう。入れ替え可能なもの、反復されて再生される過去、あらかじめ定められた敗北…。

自分自身が消耗して失われていく感覚になるか、心に空きがある感覚なのか…。何か対策があるとすれば、無理な想定を念頭に置かないこと、追い求めないことかもしれない。そして、必要だと思った大概のものはなくても問題なく生きていける。

解決が想定しえない問題提起ほど悲しいものはない。なにか良いバランス的なものはあるのだろうと思う。正解はなく調和があるだけなら、どのようにしてそこに至ろうか。空白と満腹の弁証法はどこに向かうのだろう。

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