恨みと贖罪の間にある小さな隙間を探して
それは開き直りと呼んだら良いのだろうか。感情に対する妥協なのだろうか…。
誰かに規定され、逆に規範を作り上げる要因となるのは自分自身であるという二重の無力感のなかでは、ゆるふわしているのが最適解かもしれない。ただ真面目に生きるよりかは、妥協して適当に生きる戦略しかありえない。
自分は加害者でもあるし被害者でもある。一生ずっとこの世界を恨むという意地がある。しかし贖罪もさせてほしいと感じている。たまに、その2つに引き裂かれそうになる瞬間がある。
加害者だと分かることは被害者であることを受け入れることより一段難しい。加害者であることを自覚して、その責任がどう果されるのか常に考える。誰かの理不尽は自分のせいだ。
人格という概念を捉えるのであれば、環境への適応である以上に、自らの加害性に対する対処の結果として捉えたらスッキリするのではないかと思う。
その人が参加から遠ざかるアイロニカルな性格なのか、コミットすることで消耗しているのか、のらりくらりと問題をかわすのか、誰かのせいにするのか、責任を感じすぎ燃え尽きるのか。
まあ唯一分かるのは然るべき瞬間に闘えば良いということだけだ。正解は存在しないにしても、明確な間違いに対して反対のスタンスを取ることだけは忘れないでいることができたらそれで勘弁してほしい。
それは納得してもらえる道筋を提示できる根拠を携えることでもあるし、力関係を構築し権力を持つことでもある。
世界からの断絶がある。飛び込むことのできない文化がある。ただ、そのおかげでしかたどり着けない場所もある。
加害性の発生は世界からの被害でもある。「俺のせいじゃない。でも、ごめんなさい。できる限りなんとかしたい。」という感じで行こう。
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