嫌いになってきたな「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」って言葉が

ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」って言葉あるよね。

すごくいい言葉だよね。深いし、含蓄があるっていうか。
歴史を他者が積み上げてきた経験と置き換えると、政治家であったビスマルクの名言が、一般人の我々にも通用するわけだ。

でも、なんだかこの言葉、最近嫌いになってきたんだよね。

そもそもこの言葉は僕たちにとって、役に立つのかな?
「愚者」とか「賢者」、「歴史」だと言われると、とても権威あるありがたい言葉に聞こえるけど、同時に「愚者側にはなりたくない!」って焦りも掻き立てられるよね。
賢者になりたいっていう気持ちはわかるんだけど、そもそも俺たちって賢者って柄でもない気もするし。

まあ、ちょっと待てよ。「歴史」って言葉は少し大げさすぎるかも。代わりに「教訓」って言葉を使ってみようかな。

例えば「お酒は体に良くない。飲まないに越したことはない」って「教訓」があったとしよう。これって合理的だよね。
健康のことを第一に考えれば、お酒を飲まないのが一番いいに決まってる。

でもさ、中には「そんなことない!お酒を飲むと嫌なことを忘れられる!」って反発する人もいるかもしれないよね。
おかしいよね。全然「教訓」に学べてないじゃん。

実はさ、「教訓」から正しいエッセンスを引き出すためには知性が必要なんだよね。でも、知性だけじゃ足りないんだ。
正しくエッセンスを引き出せたとしても、さらにその先に「納得」が必要なんだ。いくら含蓄のある「教訓」でも、「納得」ができなきゃ意味がないんだ。
でないと俺たちの知性は、さらに納得できる「教訓」を再探索しちゃうから。

今の自分にフィットするような、もっと都合のいい「教訓」をね。

結局さ、人間って自分の納得できるものしか信じないようにできてるのかもしれないよね。
Twitterやってると、そんな事例をよく目にするし。

自分の意見に合う情報ばかり集めて、反対意見は無視したり、批判したりする。
でもさ、これって知性の悪い使い方かもね。自分の意見に合わない情報こそ、もっと真剣に向き合うべきなのにさ。

じゃあ、俺たちが「よりマシな納得をする」にはどうすればいいのかな。

結局、愚者として「経験」を集めるしかないんだよね。
含蓄のある「教訓」に触れたときに納得できるような手触りを集めるしかないんだ。

本を読んだり、人の話を聞いたり、自分で試したり、失敗したり。そういうキラキラしてない泥臭い経験を通して、少しずつ「教訓」の本当の意味を理解できるようになるんだと思う。

だから、愚者でいいんだよな。
別に経験を集めたって悪かないじゃん。

まあね、分かってる。
「歴史から学ぶのが賢者なんだ!」って引きこもって、本やTwitterばかり読んじゃう俺たちへのカウンターウェイトであって、別に歴史なんていらないってわけじゃない。
歴史も大切だけど、それだけじゃ不十分だってことなんだ。そもそも、俺たちってビスマルクが想定するような賢者じゃないじゃん。
自分自身のこともままならないのにさ。

だから、愚者でいいんだよ。経験に学んだっていいじゃない。


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