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にしめ

年末、吉祥寺の商店街を歩きながらふと気づく
故郷で過ごさない年末年始など生まれて初めてのことだ。

毎年、実家では欠かさず大晦日にお節料理が作られる。
実家にいる頃は私も加勢して伊達巻やキントンを一から作ったりしていたが
3年前に上京してからは、ただ帰省して食べるのが当たり前になった。

今年は帰れない。
当然のように何もしないつもりではあったが、無性に、正月の煮しめが食べたくなった。
スーパーに出来合いのものが幾らでも売っているが、大抵のそれは私には甘過ぎるのだ。
料理にやたら砂糖を入れることを好まない父と弟の作った料理を食べ慣れたせいか、どれもこれも市販の惣菜は素材を殺した味付けに思える。

そうだ。煮しめを作ろう。
ん、煮しめってどうやって作るんだ。
6人兄弟の長女な私は小学生の頃から台所に立っていたので大概の家庭料理のほか、鳥の丸焼きだって作ったこともあるというのに、煮しめを知らないのだ。
安易な道を行けばことさら難しい料理ではないのだろうが、私が食べたいのは父の作った正月の煮しめだ。
あれにはきっと薄口醤油がいるだろう。サンロード商店街の端の西友を目指す。

「薄口醤油は売り切れたんですよ」
女性店員が困ったように言われ、力が抜ける。
「薄口醤油が・・・ない? ・・・・・。」
大晦日とはいえ、まだ昼過ぎだというのに薄口醤油がないのは誤算だ。

お節にお雑煮に活躍する薄口醤油。店の方だって多めに仕入れてはいたろうがー
いや、自分の例をとって考えろ。
今年は「帰省したくもできない」コロナによる帰省断念民が東京に溢れているのは間違いない。
そんな連中が何をする?
緊急事態宣言を機に「料理の楽しさ」を新たに覚えた勢も加わって
「お節料理なんか作ってみるか?どうせなら、出汁の素なんか使わず本格的に」となったのではないか。

「なんと不届きな。」
否ー、今この瞬間の私にとっては不都合だが、むしろそれは健気で健全な事か。
実家に帰ってぬくぬくとおせち料理を上げ膳据え膳で喰っていた奴らが
感染拡大に助長せぬようにと帰省を諦め、年末、外食もせず自分で料理をすると決めたのだ。
白だし一本で済むところを、わざわざ薄口醤油を買いに来るほどに。
なるほど立派な事じゃないか。

勝手な憶測と想像で納得をして、仕方がねぇやと踵を返そうとしたところ
先ほどの店員が駆け寄ってくる。「ありました!しょうゆ!うすくち!」
彼女の手に握った小さなボトルを見るとー確かに薄口醤油ではあるが、『厳選』『生搾り』という文字が気になる。
こ、これは・・・
量に反比例して、イイお値段の予感。

「最後の、本当に最後の一本だったんですよぉ」
息も切れ切れ、店員が笑う。
いつもの私なら「探してたの、それじゃないんで」と言えるだろう。
都会でギリギリ崖っぷちフリーランスに高い醤油を買う余裕はない。

だが、どうしても父の煮しめ(に近いもの)が食べたい。
そうだ。稼ぎは激減したけど、今年は持続化給付金を頂いたじゃないか。
私を持続化する為には、今、煮しめが必要だし、煮しめの為には薄口醤油が必要だ。
安ブランドにこだわっている場合ではない。
こんな事でもなければ、厳選生搾りなんてあんた買わんだろう
醤油生産者だって喜ぶじゃないか。
そしてこの店員は、一年で一番忙しい日に私の為に走ってくれたんじゃないか。

3秒ほどの心中会議の末、私は薄口醤油を受け取った。
「これにします」

薄口醤油を手に入れた私は、さらに干し椎茸やら根菜など材料も買ってようやく帰路に着く。
ほんの十数分の買い物が、なんだか長い旅を終えた様だ。疲労を感じるも、ここで諦めては意味がない。

ネットで調べると、やれレンコンを飾り切りに人参を花形にとあるが、私が目指すのは映える煮しめではない。
実家の正月の味が再現できれば良いのである。どんな風に切ってたっけか?必死に記憶を辿る。

初挑戦のはずの煮しめづくりは、どこか懐かしくもあった。
こんにゃくを捻りながら既視感の様なものが遮り、それが幼少時の記憶であると気づく。
あれはまだ、私が小学校にあがる前。
大晦日、ボウル一杯のスライスされたこんにゃくを父から渡された。
「これを、この様にしてちょうだいね。」
よく見るとこんにゃくは真ん中に切れ目が入っていて、端をそこに通すと美しい手綱のような形状になった。
「すごい」子供心に、その仕組みに感心する。
横では二つ上の兄が、せっせと昆布を結んでいた気がする。

火も包丁も特別な技術も要らない。今思えば、それらお節料理の補佐は、小さな子供にはちょうど良い仕事だった。
料理の〝お手伝い〟をしたのはあれが初めてだったのではないだろうか。

当時の私は保育園にも幼稚園にも通っていなかったが、家で、色々な事を教わった。
風呂も薪で沸かす実家では、薪割りを覚えたのもあの頃だったかー
思い返せば包丁よりもナタを握るのが早かった。
すっかり都内のマンションの給湯器に慣れたが、
薪で沸かした実家のお風呂を回想すると、炭と煙の匂いが脳裏に香った。

帰れると思っていた。
私が帰ろうとさえすれば、いつでも。
上京したのは100%私の意思であり、希望だったし今も後悔などしていない。

3年前。母も父も30過ぎて東京へ行って絵で生計立てるという無謀な娘を止める事なく送り出してくれたが、長男を早くに喪って半年も経たぬうちに長女まで家からいなくなるのは、どんな気持ちだったのだろうか。

視界に水が張って、揺れる。

感傷に浸ってばかりもいられない。
私が今できる事は水でもどした干し椎茸のイシヅキを切る事であり、酢にさらした蓮根を引き上げる事だ。

人生初の煮しめは、今季の寒い夜を超え、台所の鍋の中でも程よく冷やされて元旦を迎える。
流石に煮しめオンリーは寂しいかと鶏のお雑煮と紅白なますも短時間で作って共に食卓へ並ぶ。

恐る恐る口に運んだそれらは、完璧ではないにせよ、しっかりと1月1日の味がした。
物心着いてから30年近く。欠かさずお正月は甘くない煮しめ、薄口醤油で味付けされた鶏の出汁のお雑煮、蛸の乗った酸っぱい紅白なますを食べたのだ。もちろん、実家では更に伊達巻や黒豆や鶏肉料理などが並んではいたがー 
今の私に出来る精一杯までは、こぎつけた気がする。

振り返れば、2020は実に大変な一年であった。
年始には自作の「ほっかむねこ」達が中国に盗作され、大量生産販売されていることが発覚。
我が子(作品)を凌辱され怒りに震えるも法律は国を越えられず解決の目処も立たぬうちに、今度はコロナウイルスが国境を超えて大騒ぎ。
商品の売上は90%減まで落ち込み、ついに掴んだ全国展開のチャンスや或るメディアの公開話も、コロナ拡大や故郷熊本の大雨災害によって次々と立ち消えた。
心穏やかに暮らそうとすれば
歯医者にはぼったくられ
不動産会社には脅迫され
マンションの隣人は怒鳴って壁を殴り続ける

何だ、何だ。連中、コロナで受けたマイナスを全部わたしから搾取しよと躍起になってはいないか。
マイナス勘定勝負ならば私も負けてない。後生だからこちらに皺を寄せんでくれないか。

殴られても殴られても立ち上がって来たというのに、故郷には呑気に帰ることも許されない。

とはいえ。とにかく。
2020の私は、2021を迎えるべく、煮しめを作った。
崩壊寸前の医療現場。家や職を失った人々。
真の大変な状況にいる人々は、お節料理なんて作ってはいられないだろうから
私は、お高い薄口醤油を買ってまで煮しめを作る程度に呑気な年の瀬であったということだ。

年の初めに感謝しよう

生き延びれたこと
今日も台所に立って料理ができること

絵と文を書けば必ず見てくれる人がいること
なんだかんだで表現を生業として続けられたことに

明けない年はない
2021は、皆にとって
旧年よりも良い年であります様に

#note書き初め

#お節料理

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