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乳離れ

人生最後の経験になるだろうから....
スパッと止めるのも寂しい気がして続けてきた授乳を、「真剣に卒業しよう」と考えたのは娘が1歳7ヶ月を迎えた頃。

最近の我が子は、食欲が凄まじい。
私でも一口で食べられない量の白飯をおさじに山盛り救ってはユンボのようにスイスイと口に運び、おかわりをせがみ、自分の皿が空になると親のを欲しがる。野菜室を開けると「トート!」と叫びトマトを探し出す。

栄養は十分だろうけれど....
母乳は〝心の栄養〟にもなっている説はあるし、WHOも2歳までを推奨しているし、緩やかにやめればいいさ〜と思っていた。
が、段々私の方が疲れてきた。
深夜に明け方に突然起きておっぱいをねだって泣く。探して泣く。足りないと泣く。
私が眠くて拒むと癇癪を起こす。キレ散らかして暴れる。1歳とはいえ、【手加減なしに全力で攻撃してくる子供】vs【防御のみの大人】の戦いでは、後者が不利である。

もう心の栄養っていうか
これ依存物質になってないか.....

ー ヤク断ちが必要かもしれない。
それを後押ししたのは育児掲示板に寄せられた、ある母親の投稿。
【断乳して、やっと.... 朝までぐっすり寝てくれました。】

朝までぐっすり?
そんなことが可能なのかー
毎晩毎晩起こされて親は寝不足というのが日常化していたけれど。

家族全員の健康な眠りのために
「卒乳寄りの断乳」を決行することとなった。

「ー大事なお話です。
明日、おっぱいは、ワンワンになります。
そしたら、もう飲めません。
ワンワンになったら、おっぱいに、バイバイしてね。」
突然の衝撃的な予告に娘はキョトンとしている。「ー?ワンワン、パイー...?」

断乳の際、おっぱいに何かキャラクターを描いて子供を驚かせるというのは古典的なやり方ではあるが、
これを「事前にしっかり当事者(子供)へ告知しておく」という手法を知ったのは最近だ。

事前通告は本来なら1ヶ月前ぐらいから始めて毎日伝えるのが良いらしいが、私の場合はそこまで長期的にはできず、前日、数時間おきに繰り返し伝える事で強引に間に合わせた。
パートナーが仕事休みであるゴールデンウィークのうちに決着をつけたかったからだ。

さて連休序盤の朝ー 
私は赤の油性マジックで自らの両乳にデカデカと目玉・口を描いた。絵描きが生業と言えども、初めての経験である。
犬に見えるかも分からない絵になったが、もう予告通りにワンワンで通すと決める。

娘が嬉しそうに走ってくる。
そこでシャツをまくり、登場!
「おっす!オラおっぱい!朝になったらワンワンになって、えれぇおでれぇたぞ!」
演じている人間にもよく分からないキャラ設定ながらー娘、まさかの大歓喜。

「ワンワン?!ワンワン!!!ハハハハ.....」
しかし計画はこれだけで終わらないー。
次はシャツを捲り上げた〝パパ〟登場。
「やぁ!僕のおっぱいはニャンニャンになっちゃったよ....^._.^」
そう。パートナーの両乳にも極太マジックでくっきり、ネコを描いたのだ。
「にゃんにゃー?!」娘、ますます大喜び。そして次の瞬間ー
1歳児、何を期待したか自らのおっぱいの様子を確かめようとするではないか。
(私のおっぱいは、ワンワンかしら?ニャンニャーかしら?....)と期待したのであろう。
ロンパースを着ていたのでこの時は見れていなかったがー。

題して「世界中のオッパイがワンワンかニャンニャンになっちゃった様だね」卒乳作戦。
別に父親の方の乳に何かを描く必要性は無いのだが、巻き込んだ方が楽しそうなのでそうした。

娘はゲラゲラと笑い、両親の間を行ったり来たりしては、不気味な絵面の乳を押したりつついたりして実に楽しそうだ。
私の乳を吸おうとは、全くしない。
「乳離れってこんなにあっさり平気なもの....?」
少し拍子抜けした自分もいた。

決行の当日14時を過ぎた頃、昼寝から覚めた娘が突如泣き叫ぶ。寝起きの悪さに加え明らかに様子がおかしい。
しゃくり上げるように言葉が聞こえてくる。
「オッパ....ワンワ....オッパ....ワンッワ.....」
ーやはり、平気な訳はなかったか。
最初は「おっぱいがワンワンになるなんて楽しいーっ!」だったのが、一眠りして冷静になったか、「二度と飲めない」という残酷な現実に気づいてしまったのだ。

悲しみ苦しみ、切なさ理不尽さに踠きながら。
それでも1歳児はー 
私から乳を吸おうとはしなかった。
ただ、「もう戻らない乳」を嘆き、焦がれていた。それは私が断乳から想像する、いわゆる修羅場とは全く違っていた。
何しろ私に対し悲しみをぶつけたり強請ることは全くなく、1人で必死に喪失感と戦っていたのだ。

その夜からは作戦通り、娘は私と部屋を分けて〝パパ〟と眠ることになる。寝ぼけて私の乳を吸われては、振り出しに戻ってしまうからだ。

甲斐あって娘が授乳を要求する事は見事に無くなったが、その代わり、胸にいるワンワンを見せろと求められる。
その度「ーワンワン?」と聞くので「うん、今日もやはりワンワンだねぇ。」と返すと、納得したのか諦めたのか、それ以上は追求してこない。
日に日にマジックの色が薄くなり、もはや殆ど元の状態の乳に戻っているのに、彼女の中では「ワンワン」が持続してそこに在るのが不思議だ。
別れに嗚咽するほど慕い執着していたおっぱいを、なぜキッパリと諦められたのかー
マジックで顔を描いただけではないか。
あるよ?ここに。と大人は思うけれど。

まだ世の中の虚偽を知らない純粋な1歳7ヶ月の娘には、「おっぱいがワンワンになったらお別れをする」という実直な選択肢しかなかったのだろう。

今朝も娘は起きると、パパの部屋を出て、私と猫の眠る寝室にいそいそと走ってくる。
母のシャツを捲り、つい最近【ワンワン】となった謎の乳を眺め、慈しむ様に撫でて、満ち足りたとまでは言わないが、そこそこに満足した面持ちで、ピタッとくっついている。

さて、母子の感情とは別に授乳をやめたところで直ちには生産が止まらないのが困った点だ。決行から数日でパツンパツンに乳が固く腫れ、痛みに耐えかね、手で必死で搾乳した。
せっかく絞った乳を捨てるのも勿体なく感じて調べると、それを子供に与えることは断乳数日後でも特に問題ないらしい。

しらっとコップ一杯の母乳を1歳7ヶ月の娘に渡した。
〝おっぱいはワンワンになってお別れした〟と認識する娘は、冷蔵庫から出した牛乳の様にためらいなく口をつける。
一瞬、「おや?」という顔をした。
懐かしい味がするー
目を見開き、ガブガブと一気に飲み干して
ふふっと笑うと、
その後はぼんやり遠くを見ていた。

あれが実質、娘の飲む最後の母乳だろう。
私の乳はついに生産停止令が出たらしく、それからは全く張ることが無い。

子供の乳離れは、私が寂しかった。
我が子を一番分かりやすく手っ取り早く抱きしめ愛す手段の様にも思っていたし、泣き止まない時の最終兵器でもあった。

けれど失うばかりではない。
おっぱいがワンワンになった日を境に、
今までに見たことのない表情や仕草、変化を娘から伺える様になる。
我が子にとってのおっぱいは、「暇つぶし」の側面もあった様に思う。
なんかやる事ねーし、モヤモヤするし、いっぷくするかァみたいな。
ひとりで集中してお絵描きをする時間も増えた。

やがて娘は、あの日の乳離れに仕組まれた嘘を安易に見破れるほど成長するだろう。
その頃にはもう当時を覚えていないだろうけれど。

何かと別れ何か始まるの繰り返し。
野の花を摘み歌を口ずさみ、今日も子は大きくなってゆく。



#育児 #育児マンガ #子育て #断乳 #卒乳

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