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ネットで詩を書いている馬鹿のつぶやき②

僕は自分の詩を読んでそれを理解してくれる読者は稀で、読者の手に渡った時点で読者の誤解と勘違いが普通であるということを意識することを心がけています。しかし反対に、自分の詩を理解してくれる読者が普通で、誤解や勘違いする読者は稀であるという考えを持っている書き手がいないとは言えません。

文学作品というものは、手紙でも論文でもありません。手紙や論文、新聞などは、読み手に正しく理解してもらわなければなりません。それに、比べて、文学作品は作者が自分の詩作品を公表した時点で、その作品は読者の所有となり、自由に解釈してもらえることで、その詩作品が生き続けるのだと僕は考えています。

それを手紙や通達文書や論文などと同じように思い込んで、自由な解釈をする読者に己の意を強いるような説明や反論を作者自身がするようになればその作品はもはや死んだと同じではないか。もちろん、誹謗、中傷でしかない作品から掛け離れた、或いは明後日の方向に自分を語っているようなものに腹が立たないかと言えば嘘になるし、そこまで人間は出来ていない。

ただ批判のコメントが読者から寄せられても自分の詩作品を読んで反応し何かを感じたからこそ批判のコメントを寄せてくれたのでないか、と考えてみることも必要なのだ。読者にどんな解釈をされようとも無視されることよりはずっとありがたいことでないだろうか?

自分の詩を公表する時、僕は送別会を開く。そうして自分の詩作品からさよなら、するぐらいに思いたい。つまり作品離れをするのだ。時には殴りつけてくる相手もいるだろう、その相手にどう対処するのか? 真剣に殴り合うのか、いなす、のか、スルーするのか? コメントを返すときには自作品と自分の関わり方を考えてみて欲しいなど、と考えている今日この頃である。

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