あれから8ヶ月経過した今

今年の2月に14年間生きた実家の愛犬を亡くした。
年明けくらいから急に体の不調が多くなってそのまま逝ってしまった。

初めて会った時は私が多分小学生?か中学生くらいだった。当時の環境に私たち家族が疲弊していたとき、親が「犬を飼う」ということを潔く決め、私たちの家に小さなヨークシャーテリアが仲間入りしたのだ。

とてもヤンチャな女の子で、障子を破るのは日常茶飯事だったし、私は自分のファンデーションのスポンジや図書館で借りた本をかじられたりした(本は私の不注意ということで自腹で引き取った気がする。確か太宰治の走れメロス。)
本当に走り回るし、イタズラするのでイライラしていたことが多かった記憶がある。

その一方で、とても可愛げのある愛犬だった。散歩したり、ドックカフェに行ったり、温泉に行ったりどこへ連れていくにしても世話を焼くことなく、短なしっぽを振ってついてきてくれた。特に好きだったのは私が「昼寝するよ!」と言うとすぐに私の隣に来て昼寝をした。小さな体ではあったが、心まで温かくなるような温もりと聞こえるか聞こえないかくらいの小さな寝息を聞くと、悶々と考えていたこともすぐに忘れて一緒に寝ていた。

しかし、そんな幸せな日々を続けたい反面、どうしても上京したい自分の気持ちには嘘はつけず愛犬と一緒に過ごす最後の日が来てしまった。その時の愛犬はどこか分かっているよなでもわかっていないような顔していた。
「長い休みが取れたらすぐに帰るから。それまではどうか元気で待ってて」と思いながら、愛犬を抱っこしてお家を後にした。

それからの数年間は長期の休みが取れると、すぐに会いに行った。限られた自分の稼いだお金で愛犬のために色々と使い、一緒にいられない時間を埋めていた。当たり前のように居られないからこそ、本当に濃い時間を過ごすことに集中した。このままずっと生きてくれたらいいなぁと思いながら。

結局、自分の理想とは裏腹に今年旅立ってしまった。今までのことを振り返ると本当に愛犬は「人に出し惜しみなく与えてばっかり」のドがつくほどの良い子だった。
当初は悲しみに暮れていたが、今は考え方を変えて、私も何かを与えられる人間に少しでも近づければいいなと思っている。好きだからこそ悲しむ瞬間を少しずつ減らしていくようになった。

時間は思ったよりも限りがある。友人やツイッターの人達と飲んでいる時間なんて、ドドンパくらい一瞬で終わる。
だからやはり会えるうちに、話せるうちに、終わらないうちに自分が楽しい、好きだということをちゃんと相手に伝わるように素直になる必要があると思った。そして8ヶ月経った今、一刻でも早く愛犬のように「何かを与えられる側」にシフトチェンジしていくことを目指すのであった。おしまい。

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