看護師が敬老嫌いになった


 もうすぐ28歳を迎える。いよいよ三十路が目の前に迫っていると思うと、20代のうちにやってみたいことに挑戦しておこうという気持ちになった。そして今である。パソコンにむかうのは大学の卒論、社会人1年目のレポート課題ぶり。性に合わなくて自分自身が1番ムズムズする。やってみたいこと=自己啓発というとカッコ良く聞こえる。そんな良いものではなくて、日記を書く感覚で思っている事柄をつらつら吐き出したい。

吐き出すと表現するくらいだから、私の日常は自分自身を含む各方面への嫌悪と憂鬱とで溢れていて自分の堪忍袋にため込んでいるのだと思う。といっても仕事・恋愛・社会情勢・家族関係などしか書き留める内容は無いのだけど。



 今日はレストランで1つ間を空けて隣の席に案内された80代くらいのシニア世代夫婦の会話がよく聞こえてきた。聞き耳を立てていたのではなくスーッと耳に入ってきたのだ。確実に他のお客さんや店員さんも皆聞こえるボリュームだった。高齢者は難聴で声が大きくなる現象があることを自覚した方が良い。
 普段看護師として病棟で働いている私にとって、声量の調整は意識的に行っているコミュニケーション技術の1つではあるが難聴の高齢者に合せて話すとプライバシーの保護なんて不可能だなあと思いながら勤めている。看護師の仕事をしながら思う事はたくさんあるので、それもまたどこかで書き留めたいなと思っている。


 定食をかきこんでいると隣の老婦人の『敬老として何か貰えないのかしら。』という言葉が聞こえて苛立った、という話。私が感じた苛立ち?怒り?憤り?という感情は誰に向けてのものなのか。その高齢夫婦に対してというと間違ってはいないけど、今の日本の社会の在り方に対してという方が正しいと思う。

 少子高齢化社会の進行により、現役世代が高齢者を支えるという社会保障制度の構造自体が崩壊してきている今、この老婦人の発言にカチンときた。収入の上昇は見込めない中で物価は高騰し、財政確保のために課税徴収は増えている社会に対して嫌気がさす。特に看護師としては徴収された税金の支出先が目の前の患者にあたるので、社会保障の制度が素敵なものだとは思えない。

 喋れず、食事も出来ず、自分で動くことすらままならない、将来のない寝たきり老人の医療費を賄うために汗水垂らして働いている現役世代。この構図が可笑しいなとも思える。日本の未来を担うこどもや子育て世代に支出されるべきだと常日頃から思いながら看護する。まあ政治家が老人だらけだから、老害が起きているこの現状からの好転は望めないなあと諦めてしまっている。語る資格はないのかもしれない。


 収入の大半が税金として徴収され手取りとして残るものは本当に少ない。生存権で守られているはずの人間らしい生活を送るために衣食住をまかなうので精一杯だ。娯楽に費やすことのできる時間やお金なんて残らない。生きる意味とは?と考える。



 敬老という言葉が嫌いになった。もちろん今まで日本を支えて豊かにしてきた大先輩ではあるかもしれない。でも今の高齢者・政治家・年金受給者には「自分さえよければいい」というような考えが根本的にあるのではないかと思ってしまう。「支えてもらって当然」と思っているかのように振る舞われるとやはり腹立たしい。高齢者を支えるよりも、子育て世代への支援に支出したい。

 定食の豚汁を食べながら頭の中でこんな考えを巡らせている私。でもそれを誰かに話そうなんて思うことはない。私自身は長生きするつもりはないし、別にどうでもいいかなと思う。「勤労感謝の日を月1回にしようぜ。」わたし自身が一番自分さえよければ良いと思っているな。

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