読書2

 やっほう。また本を買っちゃったぜ。そして読み終えちゃったぜ。
 前回と同様に、今回も「本を読んだ感想文」と「本を読む僕の小話」を書きます。この本や作者さんを知っている人へ、僕の感想などを共有できれば嬉しいです。

 この記事では、平山夢明『異常快楽殺人』(角川ホラー文庫)に記述された内容を元に、個人の感想や考察などを記しています。過激な内容も含みますので、お読みの際はご留意ください。

今回は長めの感想文が続くので、目次を載せておきます。
使う機会があるかは知らんが。ガハハ。


読書感想文・『異常快楽殺人』編


 この本を読み終えた時、意外にも落ち着き払っている自分がいた。相変わらず、文庫本を読み終えた時の満足感は計り知れないものだ。
 今回、僕が読んだのは、タイトルにもあるが、「快楽殺人」を軸に構成されたノンフィクションの本だった。実在の大量殺人者たちの闇に迫り、それぞれの姿を通して人間の精神に潜む禁断の領域について探った、という内容だ。
 ここに書かれている全てが現実に起きた出来事だった。どれも異国のお話だが、つい最近の事実である。どの章でも「殺人」という事象について綴られているが、殺人者の生い立ちも被害者の様体も事件の行く末も違って、本当に興味深かった。もし自分がその境遇だったらとか、自分がその年齢の時はどうしてたとか、その捜査員の忍耐力がすごいだとか、色々と思った。
 平和な環境に生まれた僕はお気楽なもので、ここにある現実を読み進めながら殺人者へ同情する事もあった。それぞれの感性や嗜好へも物凄く興味が湧いた。
 この本は、人間という生物への認識が広まるような、そういう面白味のある本だ。僕はこの本を、人間の衝動性についての教本のように思う。ここには、生物学や世界史や保健体育のような分野が入り混じっている。知らなかった事をたくさん知る事ができた。それらは有益な情報であり、はたまた、知らなくていいと一蹴されてしまいそうな情報でもある。
 僕はこれを楽しく読んでいたが、正義感の強い人から見れば、それは気を衒っているように映るのかもしれない。とはいえ、自分の感想を偽ってまで残す趣味は僕にない。おそらく、ここに残す文章には僕自身への自戒的な感情も含まれる事になる。読み手である君の気分を害していても、どうかお咎めなしで、見逃していただきたい。

 以下、もう少し込み入った僕の感想などを、できるだけ素直に、章ごとに分けて書き連ねておく。

『エドワード・ゲイン』

 章の冒頭より、『ツァンツァ』の加工法が紹介されていた。これも興味深い。命懸けの戦いの際、勝軍が「敵の首を取る」という事が起こり得ると聞くが、ここでは物理的なそれについて詳しい説明がある。その首の行く末や保存法について少し知る事ができた。
 そして、この章では何より、死体愛好に関する記述が濃い。死体愛好というのは字の如く、死んだあいつの体が唆る、みたいな執着などを呼ぶ。僕はこの愛好が僅かにあったりなかったりするため、この部分にとても惹かれた。
 序盤にある、アルディッソンという墓守の話が滑稽で笑える……その内容は笑い事ではないのだが。死人に口無しとは度々聞くが、キッスを贈られてしまう口はあるらしい。初対面の死人へ愛を囁く生者がいると思うと、現世ってとんでもねぇなと思う。
 ゲインの母屋にあるインテリアなどの描写には圧倒された。死体それぞれの皮も骨も内臓も自分好みに整えて保管していたと知ると、ゲインの死体愛好はホンモノだったのだろうと思う。彼が「どんな物でも捨てません」と言った事にも頷けるというか、終わった物を手元に留めてしまう感覚があるからこそ、そうなったのだろうと考えられる。人を殺めた事は異常だが、本来は捨てるはずの物を捨てずにいるという事は、すんなり共感できてしまえる。
 ゲインの母親の話も、読んでいて色々と考えてしまった。オーガスタのように過度な信仰心があり、自分の持つ正義を善とし、悪と思う事を排除しようとする思考の持ち主というのが僕の身近にもいた。親や保護者というのは、その人間が生まれてから最も近くにいて、最も多く共に過ごす相手だと思う。オーガスタのように人間関係を制御してくる人間が近くにいると、どうしても自分の身内が他に作れず、関心や情を向けられる相手がその相手だけになってしまうのだろう。ゲインがオーガスタに向けた想いのように、内省的な思考を持つ親を深く愛してしまうのも解らなくはない。愛情と執念は似て非なるものだとは思うが、その感情がどちらかなんて本人にすら判らない事もあるはずだ。ゲインは母親が亡くなっても尚、母親の部屋を当時の状態で保っていた。彼の死体愛好に始まりがあるならきっとここからだろうと僕は思う。もう使われない部屋をそのままにする、なんて異常者でなければしない事なのかもしれない。普通なら片付けて、他に使えるようにするものなのかもしれない。
 歪に刻まれた固定観念によって、やがてゲインは「自分を飾る」ようになる。加えて、その材料となる死体と性交もする。他の殺人者にも言えるが、人間の探究心というのは異常なほど行動力へと繋がるものだ。どんな小さな理由であれ、人を殺めてからしか解らない事があれば殺めてしまう人間もいる。それが恐ろしくも面白い。理性というのも同じく、初めは背徳感や罪悪感があって抑えられていた事でも、慣れてしまえば繰り返すのも厭わなくなる。なんの躊躇もなく人を殺めて、それを自分の利にしようとする。ゲインの場合、既に死んだ人間をターゲットに用いるため、よりタチが悪いと思う。どんな死体にも遺族がいるはずなのに。
 章の中盤、「ゲインお気に入りのパーティーの方法を紹介しよう」という素っ頓狂な段落がある。僕はこの書き出しも好きだ。
 彼が「ノルウェーのバイキング方式」と呼んだ解体法の話がある。死体加工についての発言で、持ち帰った脳の使い方と、ゲインが「つやつやに光らせておこうと思った」事については、特に興味深かった。
 死体現象の変化についての記述も良かった。映像作品などでも描写される事は滅多にない、死体が腐敗していく流れが丁寧に書かれている。生きていた細胞の変化は面白い、読み応えがあった。日本が死体に対してどれだけ慎重で潔癖な国か、思い知らされるようでもあった。
 章の終盤には「ゲイン・ユーモア」の記述がある。ここから数ページに渡る事象の説明や表現が本当に好きだ。彼の事件が「猟奇のデパートのような」と修飾されているのも面白い。彼が生み出してしまった悪趣味ユーモア、その中のいくつかがここにも書かれているが、本当にどうしようもないのが堪らない。そして、惨い事件だとしても世間ではちょっとした娯楽に変換されてしまうという事に、人間の冷徹さと間抜けを思う。
 この章を読みながら、ちゃんと少し気分が悪くなったし、死体は死体なのだと思った。読んでいて本当に、とても興味深い章だった。僕も、何かの役には立てているのだろうか。

『アルバート・フィッシュ』

 妻に浮気をされてから狂い始めた人、という認識でいる。
 ベテラン刑事に「無害という言葉が、服を着て座っているようだった」と言わせたり、精神鑑定士に「もし、自分の子供を誰かに預けることになった時には、誰でもまっさきに声をかけそうな老人」と言わせたり、この本にも載っている写真を見て僕も驚いたが、その風貌はとても穏やかだった。まさか、「あなたの奴隷になりたいのです」という手紙を書くとは思わないし、その体に自ら針を刺すとは思わない、そういう顔をしている。ある意味、性格が人相に出ているのかもしれない。人相が穏やかなのは得だと思った。
 記述にある『デービス船長の友人』から届いた手紙の文章を見ると、フィッシュがSM行為のパートナーを探した時の手紙もこういう質量だったのかな、と思ってしまった。文章での表現を見ると、確かに変質者だと妙な納得があった。
 彼のマゾヒズム始まりは寮母の鞭打ちだったようで、嗜好とは何がきっかけに刷り込まれるのか本当に分からないものですね、と思う。せめて、犯罪には足を突っ込まないでいてほしかった。異常性愛者がイコール殺人者予備軍、みたいな扱いを受けてしまうのは本当に哀しい。哀れだ。薄っぺらい平和主義者や、被害者ぶるのが得意な自意識過剰者にも辟易する。
 この章は、食人に関する話から始まる。具体的な引用は避けるが、ここの「専門家の試算」の段落で僕は気が触れた。それぐらい、興味が惹かれる文章だ。
 今のところ僕は人を食べようとはなっていないが、人肉は腹持ちが良さそうだと思う。妄想的な感想を残すが、死んだ僕を丸ごと提供して誰かを飢餓から救えるなら、そうしてみたい。また、それとは別に、僕が死んだ時は食人を許された場所で相互の承諾の上、この全身を余す事なく食らわれたいと思った。それまでに僕がペットを飼っていたら、そいつにも僕を食ってほしい。そうして自分の記憶が分け与えられるなら、それは死んだ僕の本望かもしれない。
 グレース・バッドの誘拐事件の詳細も書かれている。グレースが出かける前、彼女がはしゃいでいる描写がある。その「鏡の前でポーズを取る姿」の表現がいい。その後にも、ハワードとグレースが列車を乗り換える時、グレースがハワードの鞄を取り戻してくる描写があるが、この2人は親しそうで、読んでいて少し苦しくなった。グレースは純粋で優しいし、本当に勇敢だ。
 フィッシュが持っていたハーマン事件のスクラップの話から、その詳細の記述もある。ハーマンがしていた色々に対しては、ここまでを読んでいればもう「あぁそうかい」ぐらいの感覚で読んでしまったのだが、ハーマン最期の『怪物の首』の話に衝撃を受けた。官吏が面白がって晒したのもびっくりするし、それを大衆が専門医に診させたのもびっくりだ。世情に不安があると民はここまで正気を失うのか、と思った。あるいは、その他に娯楽が見つけられない人が多かったのだろう。しかし『怪物の首』はただの肉塊でしかなかった、というオチに痺れる。ハーマンは死んでも尚、人々に肉を取引きさせていたのだ。それをフィッシュは嗜好としての観点で捉えていたようだが。
 この章を読みながら、フィッシュが精神病院から釈放される時に身元引受けをした娘や、フィッシュの奇行の犠牲者だった息子が、事件発覚当時に彼と絶縁していないらしいのが不可解だった。やはり絶縁なんてそう簡単にはできないのか、絶縁しなくても済んでしまうような老紳士に見られていたのか。また、彼のやり方が「実に手の込んだものだった」からかもしれない。
 顔が穏やかな人はやはり得をするのだろうか、それともやはり性格や純粋さが人相に出るのか。サドとマゾが共存する精神の持ち主、好奇心で人間を食らった老人。満月の夜に肉を生で食らうとか吠えるとか、それを実子にも強制していたらしいとか。この章での主人公である彼について具体的な情報が少なかったから、彼の殺人は本当に「手の込んだものだった」のだと思う。
 死ぬ間際まで穏やかな老人であれたら、どれだけいいだろう。彼には、身近な人間関係を断たずに生きていたという部分もあるのが興味深い。この章も面白かった。

『ヘンリー・リー・ルーカス』

 この本の中で僕が最も気に入っている章だ。ここに綴られている人生は物語のようで美しい。
 死刑囚として自身が起こした連続殺人事件の捜査や解決に協力している殺人者がいる。ヘンリーは改心し、クリスチャンとなった。彼は、小説『羊たちの沈黙』のレクター博士のモデルになった人物でもある。
 章の冒頭、ヴィオラという妊婦の話から始まる。彼女はヘンリーの母親である。娘ならいい、と望まれながら産まれた11番目の男児がヘンリーだったそうだ。彼の幼少期の記述には、耐えがたいものがあった。よく生きていられたね、とヘンリーを讃えたくなる。救いの手を差し伸べてくれていた先生方や夫婦に対して、どうしてそうなってしまったのか、でもそうするしかなかったのだろうと、虚しさとか諦念とかに似た気持ちが湧いた。
 読んでいる僕も気が狂ったのか、全てを失ったヘンリーが腹違いの兄と同性愛に耽ったという描写は、寧ろ祝福するべき以外の何でもないように思えた。そして、いつまでも2人で楽しく遊んでいてくれ、などと思っていた僕を置いて、兄がヘンリーの元から永久に姿を消すのだ。
 父親の遺体を山に埋めた後、ヴィオラの元へ戻ったという描写がある。律儀なのかなんなのか、心苦しい。逃げてしまおうという考えも出てこないぐらい、思考が制御されてしまっていたのだろうか。刑務所は天国だったとか、母親を自らの手で殺めても「お袋が死んだとは思ってなかった」とか、本当に「骨の髄までヴィオラの支配下に」あったのだと思う。
 ヘンリーが緊急逮捕されてから「放り出された」という話も衝撃的だった。罪人が許される時、財政が裏で動いているという可能性もあると思うと、何が裁きなのか何が罰なのか、分からなくなる。社会の理屈には歪みがある。彼が殺人行脚を始めた事にも、僅かに同情してしまう。
 その後、ヘンリーは、肝が据わった12歳の少女に恋をする。この2人の想い合いがなんとも可愛らしい。訳あって、ヘンリーの留守中に彼女が神の洗礼を受け、彼女は怪しい事をしてきた過去を懺悔するつもりだとヘンリーに告げる。神の子となった彼女はヘンリーへ清らかでいるよう懇願するものの、彼は彼女と相剋し、終いには彼女を殺めてしまう。頭に血が上った一瞬の内に、彼女は血塗れになっていたのだとか。死体になった彼女からヘンリーが離れた隙に、彼女は彼の相棒に犯され、食らわれている。
 章の終盤、シスター・クレイミーと呼ばれる女性が出てくる。ここから最後まで、本当にすごい。できれば読んでみてほしい。筆者の表現がいいのかもしれないし、ヘンリーが改心した事実があるからそう思えるのかもしれない。
 母親にも恋人にも一線を置いて、相手を神聖なものとして扱うような彼だ。恋人に神の教えを説かれ、話が通じないと思い、意図せず恋人を殺めてしまった彼だ。人生の窮地に立たされた時、神の声を聞いた彼だ。そんなヘンリーがシスター・クレイミーから洗礼を受け、神の子となった。それがすごく面白い、彼が神に導かれていたみたいで興味深い。僕の語彙では表現しきれないのが悔しいぐらいだ。この話は本当に妙で、不思議で、神秘的で、狂気的で、面白い。悪魔の子と呼ばれた人生が神の子となった今、どんな心地なのだろう。
 この章は特に、冒頭から小説を読んでいるような気分だった。しかし、これも全てノンフィクションの実話である。ヘンリーが事件解決を全うし、無事に死刑を受けられる事を願う(が、彼の死因は心不全だったそうだ)。良い話だった。

『アーサー・シャウクロス』

 犯罪心理学における「時限爆弾症候群」と呼ばれる症状があるらしい。精神的苦痛に追い込まれても人格分離しなかった大人の場合、自己防衛のために凶暴な反撃を行うようになるのだとか。これは本人の中で常に緊張状態が続き、気を穏やかに保てなくなり、周囲とのコミュニケーションが図れなくなり、疎外感だけが募っていく。僕が精神を病みたくない理由に、こういうふうな思い込みによって自分の首を絞める事になるかもしれないから、というのがある。冷静な判断ができなくなるほどに嫌悪や殺意を自意識下に潜在させていたくはない。
 シャウクロスがブレイク少年の解体をしたという記述からは、単純な狂気を感じる。彼は何が楽しくて生首と踊ったのだろう。その日記は我に返った自分からの忠告だったのか、訳の分からない悦楽に陶酔した自分が書き残したのか。
 事件に関する判決の話では、シャウクロスと地方検事の間で「取り引き」が行われたとされている。懲役50年のところが25年に縮まったらしい。正当な判決というのは何を指すのだろう。この「取り引き」で別の誰かが救われていたとしても、彼に失われた命は還ってこない。人を死なせていても理由があれば罪から逃れられる事を、僕は少し複雑に思う。罪を犯したからといって罪人が長く苦しめられていいものでもないはずだし、課せられた刑罰というのはあくまでも罪人が反省するために与えられた猶予だと思う。しかし、罪人と検事が行う「取り引き」によって、その刑罰が軽くなり得るのだ、被害者の意思をも差し置いて。どこまでも「物は言いよう」なのだ、どんな悪でもどんな善でも。
 シャウクロスが少年時代に「自殺ごっこ」をしていた、という記述がある。彼が9歳の頃からその遊びは始まったそうだ。その歳で自分を呪う子供が現実にいると思うと、家族というのは本当に禍々しいものだと感じる。尤も、幼い頃から苦しい思いをしている人間はどの国でもいつの時代にも存在するだろう。しかし、自殺願望を遊びとして実行に移している9歳がいた事に僕は驚いた。僕の9歳なんて、まだ自分が生きている事すら理解していなかったぐらいだぞ、と思う。ガキが死に急ぐなよ、と言いたくなる。が、他に頼れる人間もいなかったのかもしれない。だとしたら、自分を呪ってしまうのも分からなくはないような気はする。味方がいないと思いながら過ごす孤独は息苦しいものだ。
 子供を使ったブービー・トラップの記述も勉強になった。兵役帰りの父親が我が子をブービー・トラップと勘違いして傷つけてしまう事もあるらしい。この部分は特に強烈だった。わけもなく癖で、習性で、人を殺める事も起こり得る。
 この章では、戦争を経験する兵士たちや帰還兵たちがどんな状態にあるか、という事がびっしりと書き込まれている。刷り込まれた戦闘意識は抑えがたく、自身の奥底に根を張る防衛本能には抗えない。幼少期からの孤独や、戦争を体験する兵士の後遺症によって、シャウクロスは抑制が効かない人生を歩み続けた。
 潜在意識というのは人間の思想や行動へ強く影響を及ぼすらしい。一度慣れてしまうと、元には戻れなくなる事もある。自分でも歯止めが効かなくなって、誰にも止められなくなる、それが恐ろしい。慣習は自我を失う事でもあるのかもしれない、と僕は思う。だからこそ定期的に見直していたいし、慣れなくて済む事なら慣れずにいたい。人が生きる時は誰かからの情が必要なのかもしれない。それが愛情でなくとも、何者かからの関心を向けられている人間なら奇行には走らないのかもしれない。謂わば「誰からも見られていない」という自意識が犯罪者を生むのではないだろうか、とも僕は考える。
 できるだけ多くの人が精神を病まなくて済むように、戦争は起こしたくない。誰かが命を落としたり街が血だらけになったりしなくて済むように、戦争は止んでほしい。そう強く思う。僕の一存がそうだからといって、すぐに世界がそうなるわけではないのだが。僕にだって話し合いたい時はあるし、口喧嘩する事もある。それが殴り合いになるとか命懸けで主張したいとかいう人たちが、戦争を起こすのだろう。名誉や文化や歴史や家庭など、守るものがあって戦う人たちもいるのだろう。勝利や権威などというのは、武力を指す事もあれば財力を指す事もある。意思表示が攻撃にも防衛にもなり得る。黙って許容する事が絶対の正義とも限らない。各々の主張やプライドがぶつかり合うのが諍いだと思う。人間が意思を持っている限り、諍いは止まないものなのかもしれない。平和的な解決など、既に不可能と分かっているからこそ生まれた言葉なのではないか、なんて考えてしまう。希望するだけでは物事が進まない、しかし行動に移せば少しは変えられる。そういう思いが、戦争という命懸けの諍いに形を変え、それぞれの決着を待たれているのかもしれない。人間が何かを希望する事を止めれば、諍いはなくなるのかもしれない。だが、意思や感情や欲を捨てきれないのが人間だろう。七つの大罪という言葉もあるぐらいだ、僕も犯罪者になり得るのかもしれない、これまでは法に触れていないだけで。

『アンドレイ・チカチロ』

 下ネタが濃い章だ。君がそれを苦手とする場合、この章は薄目で読み進めていただきたい。この感想文のここも薄目で、というか読み飛ばしたほうがいい。
 まず、この章の書き出しには笑ってしまった。そんな書き出しがあるかよ、という笑いだ。他意はない、決して。この本は重々しくてグロテスクな話が続くため、読んでいると気が滅入りそうになるのだが、この章にある下ネタはいい緩和剤になっている気がした。
 本筋に移る。僕は、その名前を歌で聴いた事があった。彼が53人を殺めた事はその歌詞から知っていたが、どういう誰なのかは知らなかった。
 チカチロは記憶力が良く、賢い人間だった。しかし、視力とちんちんは弱かったらしい。特に、彼は自分のちんちんの弱さを気にして生きていたと見る。学力や学識が全てだったような彼には自然と、未熟な他人を見下す癖が付いてしまったのだろう。自分を賢いと思うからこそ自己肯定感も強く、自分を信じるように神も信じ、自分のような賢い人間以外は価値のないゴミにしか見えなかったのだろう。そう思う事でしか自分の地位や精神の安定を見出せなかったのかもしれない。
 チカチロが教師をしていた頃の記述がある。大人が子供に近付く、という事にはどういう意味が含まれるものか、と少し考えてしまった。もし、かつて小学生だった当時の自分へ「自分の幼さを把握しているか?」と訊いても、「していない」あるいは「もう赤ちゃんではないから大人だ」などと返されそうな気がする。そういう偉そうなガキが狙われるんだぞ、みんなも気を付けような。そして「ガチョウは、変態のホモじじいだ」騒動の後、チカチロはいざという時に生徒を刺すため、護身用ナイフを持ち歩くようになる。彼は生徒の写真を使って刺す練習までしていたようだが、その教師に子供を預けていた親たちは何を思うのだろう。
 チカチロの手口はどれも悲惨だ。本人が「中途半端な妥協を許さなかった」などと発言しているぐらいだから、そうなのだろう。勤勉な彼らしいと言えばそうだ。特に「オリガの後で拾った女の子」の段落にあるチカチロの発言は、最低のグルメ・リポートだ。
 彼が起こした事件が発端で、冤罪と見なされ処刑された人物、激しい尋問に耐えられず自ら縊死した人物、実証なく逮捕された人物などもいる。ヴィクトル・チャルニャエフという人物についての記述は興味深かった。そこに罪がなくとも別の何かを隠し通したい人間もいる、という事だろうか。事件に関わっていても関わっていなくても、その犠牲となった人物たちがたくさんいる。本当に度しがたい。
 血液鑑定に関する記述も興味深い。科学の発達を信用し過ぎないほうがいいのかもしれない、と思った。チカチロの体質が「殺人機械としては完璧」なのは確実だったのだろう。
 チカチロが父親の見舞いに行った時の話がある。不覚にも同情した。当時の彼が引き起こした衝動は、僕がこの本を買った時の衝動と近いように思った。
 チカチロが銃殺刑を受けたのは法に則った事のはずだが、それが2月14日に行われたというのは彼への皮肉のようにも思える。
 この章も最後の一文が不気味だった。その商社は何の研究に彼を利用するつもりだったのだろうか。
 これは僕の見解だが、チカチロの人生は、本人の賢さが回りまわって仇となっているような気もする。彼は賢かったから教師になったはずだが、教師という職業をしていたから若い肉体への探究心が生まれ、犯罪に手を染めてしまったのだ。探究心というのは勉強家が抱く意欲であって、本来なら悪いようには思われないもののはずだ。しかし、教師だった彼の場合、その意欲を自分の生徒たちへと向けてしまった事が運の尽きというか、ただ一点の失態だったのではないかと僕は思う。手近にいる若い肉体だからといって自分の生徒に手を出してしまうとは、学者としても犯罪者としても変質者としても安直な行為だろう。やるならもっと慎重にすればいいのに……いや、慎重にしたところで罪は罪なのだが。
 チカチロが殺人を繰り返しながら解体技術を上げ、殺し方にも工夫を凝らすようになったと知ると、やはり学習力の高い人だったのだろうとつくづく思う。彼が抱いていた若い肉体や性器への執着を、他の動物の生殖や植物の交配などへ向けられていたら、学術や研究面で表彰されるような、いい影響を残せる形で彼は世に出ていたかもしれないのに、とも考えた。
 この章では「教師」が出てくるからか、自分が「生徒」だった頃があるからか、他より想像できてしまえる描写が多くて、読んでいると胃が軋んだ。が、そんな中にある唐突な暴露に救われた。君がこの本を持っているなら、見てもらいたい部分がある。その216ページの14行目を知っているだろうか。これはなんだと思う? よく分からない文脈で挟み込まれている、筆者のユーモアだろうか。作者さんが資料を見てこれを知った時、どんな思いだったのかが気になる。そしてなぜ、どういう勢いで、これも本に書こうと思ったのだろう。読者への配慮として「一発ふざけておくか」みたいになったのだろうか。分からない。本当に分からないが、僕はこの記述もすごく気に入っている。

『ジョン・ウェイン・ゲーシー』

 僕がこの本を買った切っかけであり、この本を手に取って初めに読んだ章だ。僕は道化師という存在が好きだ。どのくらい好きかを書きたいところだが、話が逸れてしまうため、ここでは割愛する。君は道化師という存在にどんな印象を持っているだろう。
 世の中には様々な道化師が存在する。その中でも実在の道化師が、この本には載っていた。ゲーシーは道化師ポゴとして慈善活動をしていた実業家で、小説『IT』に登場する怪物のモデルになった殺人者でもある。
 冒頭から、ポゴが子供たちと戯れている描写がある。読んでいると自分もポゴたちの芸を見たような気分になれて楽しかった。僕も『いたずらパピィ』を見てみたい。情景描写の終盤にある、「いつまでもポゴのままでいようとするかのように」という表現がとてもいい。当人がポゴの事を気に入っていたように思えるし、意地汚いガキを相手にする以外は本当に楽しく道化師の活動をしていたのだろうとも思う。
 子供に慕われ、子供たちの事が好きだったゲーシーだが、その内のジャック・ハンリーが多くの少年たちを殺めている。ゲーシーは多重人格を主張していたらしい。多重人格に関する記述も解りやすかった。ここでゲーシーが「こざかしい知恵の働く饒舌な男」とされているのは最早、彼への称賛のように思える。第3のジャックに会っていた少年たちの気持ちを思うと、本当に不気味だったろうと思う。
 彼は有名チェーン店3軒で働いていたり、政治的な業績を積んでいたりしたという事実から、ゲーシーが社会や周囲から支持される優秀な人物だった事が察せる。社会的な成功者には、やはり裏の顔が存在するものなのだろうか。
 それとは別に、ゲーシーが4歳の頃に受けたイタズラの話も『レスリング』の話も、彼が倒錯に陥った確実な理由だと思う。なかなか想像しがたいが、実際にこういう経験があるとトラウマになるのは分かる。ゲーシーが精神的な圧迫により失神するようになってしまったのも相当だ。
 僕の唯一の安心は、ゲーシーがポゴの姿で人を殺めなかった事だ。ゲーシー自身が道化師ポゴでいる事に「真実の安らぎを得た」とあるように、彼の中のポゴは精神の安置だったのだろう。父親と同じ呼び名を嫌っていた彼にとって、ポゴやジャックたちの存在は大きかったはずだ。その事を知らなかった僕は、彼の中で人格分離が起きた理由を、彼が道化師の職業病に罹ったからだろうと想定していた。しかし実際には、彼の中の無意識的な人格交代が起因だったようだ。
 臨床鑑定に関する記述の中でも、心理的な検査の記述がすごく勉強になった。僕自身でもいくつか簡易的な検査をしてみたが、いい参考になった。鑑定では、ゲーシーの頭脳はすごく優秀だったそうだ。僕からすれば、ジャックたちも道化師ポゴも世渡り上手も大量殺人も、全ては彼の人生の算段だったのではないか、なんて考えてしまう。どこまでが意図され、どこからが衝動によるものだったのだろうか。
 ゲーシーが最期に格闘した30分間、彼は何かを思考できたのだろうか。彼の最後の自慢話は、きっとジャックの発言だろうと思う。ジャックは彼の最期をどう捉えていたのだろう。この章の締め方も良かった。

『ジェフリー・ダーマー』

 美青年の大量殺人者だ。これが作り話だったら僕は萌えに萌えていただろう。不謹慎を承知の上で残すが、この実話はあまりにも現実離れしているため、僕の想いは控えめな萌えで済んでいる。
 章の冒頭、警官が「粋なブレスレット」について言及する描写がある。「タフな場所」を見回るようなタフな警察だと、受け答えもそういう冗談めいた感じになるのだろうか。筆者の意訳が洒落ているという可能性もある。どちらにせよ、ヒッピーな表現で好きだ。そのエドワーズが体験した一連の説明も、段落の締め方も面白かった。
 ダーマーは人肉で食を賄って暮らしていたようだ。「道を行く人は単なるエサ」という文言に圧倒される。人間を解体した部屋で異臭に包まれながらも過ごせるのは彼が異常者だからか、はたまた、いつの間にか鼻が血や腐敗肉の臭いにも慣れてしまうのか。生きていた人間の肉を幾つも食った人、日本でいえば平成時代に生きていたんだとよ。
 デニス・ニルセンの話も興味深かった。肉を下水に流す時は茹でてからにしようか、などと考えてしまった。僕が今後、料理人にでもならない限り、肉を下水に流す事なんてないだろうに。ニルセンがタルカム・パウダーを使って行う「妙な癖」の話も、精神の闇と欲のちょうど中間のような箇所に迫る記述で、面白い。
 ダーマーが昆虫採集用の化学薬品セットを貰った後の記述がある。ここで「連続殺人犯特有の小動物や昆虫への執拗な虐待行為」と書かれているのだが、僕は息が詰まりそうになった。その具合がどうかは定かではないが、小動物や昆虫への虐待経験なら僕も心当たりがある。僕も異常なのだろうか。また、ダーマーが友達の心臓の音を聞きたがっていた、という話にも共感できる。エドワーズを捕まえたダーマーが心臓の音を「チクタク」と表現した事に関しても、そういう興味が彼にあったからだろう。生物の「動く仕組み」が気になるのはすごく分かる。
 ダーマーが両親から棄てられた後、ダーマーの父親は売名か儲けかのダシに息子を話題にしていたらしいのが気の毒だ。彼の米空軍での同僚が「よっぽど父親が恋しかったんじゃないか」と語ったようだが、それは違って恨みの裏返しだったのではないか、と僕は思う。
 最後の段落、彼が『羊たちの沈黙』を熱心に観ていた、という括り方が良すぎる。この本の中でも繋がりができている事に不気味さを思う。だが、惹かれ合うものは惹かれ合うのかもしれない、なんて考えてしまう。作者さんがこの事を発見したのも、すごい。
 彼の家にある被害者の部品を入れた冷蔵庫や死体を漬け込んだ樽などは、後にオークションへかけられたとか。買い手がいたとして、それが研究者なのか医者なのか収集者なのか、はたまた別の異常者なのか、誰だったのか少し気になる。
 ダーマーは電気椅子に座ってその生涯を終えるはずだったそうだが、刑務所内で刺殺されている。恨みを買うには十二分な人物だろう。しかし、刑罰を受ける事もできず人生を終わらされてしまう罪人もいる。それは無念だ。

『おわりに』・『参考文献』

 書き出しの文章に苦笑いしてしまった。僕は4ヶ月ほどで読了した。この本を作った人たち、ありがとうございます。そして、お疲れ様でした。
 それから、この章の締めの一文にも背筋をくすぐられる。参考文献の欄がびっしりと詰まっているのもいい。作者さんがたくさんの情報を踏まえた上で、この本をこの構成で作ったのだろうと思う。本当にすごい。作者さんからの手紙のような文体も好きだ。

 どれも物騒な話のはずなのに、読んでいて笑ってしまったり教訓に思えたりする部分が多かった。何が理由かは定かではない。でも本当に、めちゃくちゃ面白い本だなと思う。
 殺人者については、各々の供述などがなんとなく無邪気だったり、どこまでも欲に奔放だったりするから、この本を読むのは面白いのかもしれない。人間離れした彼らの「人間じみた部分」を見たような気になって、それが楽しいと思えてしまうのかもしれない。
 殺人者の人生と自分の人生が重なっている時期がある事も、少しゾッとする。僕がその地域で生まれていれば、もしかすると、この命は既に亡かったのかもしれない。

 僕がこの本を読んでいて楽しかった理由のひとつに、何より筆者の文章が良かったから、というのがある。
 これだけみっちり、全章に渡って「殺人」という残忍な事象と向き合われている内容なのに、作者さんのユーモアが紛れている気がして面白かった。どす黒い事実と情報の中に、笑ってしまう表現があった。それが本当に良かった。
 選り出された事件や人物たちにも、作者さんの拘りを感じる。本の最後にある『おわりに』でも書かれているように、作者さんの考慮が行き渡っていると思う。それら以外にも、類似した事件や人物の記述などもあるのが良かった。作者さんの丁寧な注釈や当該国のメディア媒体からの情報引用などを頼りに、様々な事例での人間の思想や心境を考察しながら読む事ができた。あと、ウィキぺディアよりもこの本のほうが情報が濃い気がする。表現も正確だったように思う。まぁ、僕はこの本を読んでから彼らを知ったため、そうなるのも当然なのもしれないが。

 本を買ってから知った事だが、僕の好きな作品の原作者がこの作者さんだった。作者さんは過去に週刊誌の記者として執筆をされていて、その後、作家として初めて発表された本がこの『異常快楽殺人』だったとの事だ。知らない間に僕はこの作者さんの何かに惹かれているのだろう、妙な納得感がある。
 この本を読んでいると時折、新聞を読んでいるような感覚になっていた。淡々とした綴られ方の文章だからだろうか。事件や時代背景などの説明が解りやすいのも、作者さんが記者を経験している人だったからだろうと思う。そして随筆を好む僕だ、この本を読みたいと思えた理由もそこにあるのかもしれない。

 本を読み進められなくなるとか臓物が痛む気がするとかの変調も特になく、やや背徳感に見舞われながらも、この本に書かれている事実と僕は対峙していた。
 もう既に忘れてしまった部分もありそうだが、僕はこの本のお陰で10個以上は新しい言葉を知られたと思う。調べ物をしながら内容を理解できたのも、すごく楽しかった。勉強になった。

 この本を読んでいて、殺人者に同情したり、その嗜好に共感したり、そうなった事に納得したりした。
 僕がそう思えたという事は、この本でいう『パンドラの箱』を僕自身も抱えているという事だろう。僕の幼い頃を思い返せば確かに、そうなる理由があったように思う。そんな自分が殺人者にならず過ごせてきた事に、酷く安心する。単純に、人を殺める意志が保てないとか、収監される不自由さに耐えられそうにないとか、そういう小心が奥底のほうにあるのかもしれない。どうであれ、僕は他の人生を潰さずにいる事を、良かった、と強く思う。
 それぞれの人生を目で追いながら、人間が人生を送るにあたって、その環境や対人関係がどれだけ重要なものかを何度も考えさせられた。この本の『おわりに』にある『幼い魂』の話も、すごく印象深い。人間が人格を形成する時、特に幼い頃は、周囲から物事を教え込まれる一方で、他の事を知らない・教わった事を全てと思い込む、という危うさがあると思う。
 ここに記述された事件には、加害者だけでなく被害者もいて、そのどちらにも人の繋がりは存在していて、みんな同じ人間で、しかしながら、その間に加害と被害がある。どちらも基は同じはずなのに、と少し複雑に思う。実害を出した殺人者が何よりも悪い、しかし殺人者がそうなってしまった境遇のほうが遥かに憎い。
 僕は今後、彼らの殺人者である一面を反面教師にして、人間たちに対して優しく穏やかに、健全に接していられる人間でありたい。

 内容もそれ以外も、全部が面白い本だった。この本を読めて満足している。またいつか、人間の心理を考えたくなったら読み返そうと思う。そして、自慰に耽る時は加減を分かっておきたいとも思う。


本を読んだよオブ2024年1月


 前に買った本を読み終えてから1年とひと月が過ぎた頃、カレンダー形式でいうなら2023年の9月の下旬、僕は遅れた盆参りへ行った。その帰りに、人から「死ぬ事を考えている」という話を聞いた。
 その人は、約10年ぶりに会った人だった。すごく気品のある人で、他人の身形や行儀にも厳しいのだろう、会う度に僕を躾けようとしてくれていた人だった。今だからそう思える。昔はずっと「できれば会いたくない人」だった。
 せっかくだから会わないか、という連絡が入ったのは、その当日の朝だった。その人は人づてに僕の話を聞いているはずで、僕から話せる事なんてないし、会ったら昔のようにまた指図を受けるのかもしれないと思った。ただ、機会に恵まれたから会う事にした。
 当日に言われて断る理由もなかった。どうせ先祖に会いに行くなら、みんなで集まって会いに行ったほうが向こうさんも気が楽だろう。(死者に気を遣っても仕方がないとは思うが) それに、僕も少しは大人しくなったはずだ。何を言われても今の僕が思うように応えよう、と思った。その日は、この世とあの世の全員へ顔向けするような気概で挑んだ。
 その時が来て、僕はかなり気を張っていた。しかし、盆参りの間も、その後にも、その人から昔のように指図される事はなかった。僕は拍子抜けしていた。
 僕は、世間で話題に出るような「人は変わる」という話を分かっているつもりだったが、分かっていなかったらしい。自律的な人があんなに弱ってしまったのを目の当たりにすると、虚しくてしょうがなかった。詳しくは省略するが、その人が「何も楽しくなくなった」と話すのを見て、僕も似たような事を考えます、と言いたかった。でも、言葉の節々からその人が僕を自身と区別しているのが分かったから、黙っておいた。共感の意を表するのは、本当に難しい。
 他に連れ立っていた相手もいたのに、その人は僕にしかその話をしなかったらしい。そんな重大な話は、ご無沙汰ぶりに会った頼りないガキになんて話さず、もっと親しい人に言えばいいのに、と思った。
 解散後、僕が別の相手へ、その人から聞いた事を告げ口しても、その相手は暗い話を聞きたくなかったのか、それほど深刻な話だと思わなかったのか、真面に聞いてもらえなかった。それが悔しかった。僕よりもその相手のほうが、その人に詳しくて近しかったから。
 僕は、墓場に行った生者から「死ぬ事を考えている」と聞かされた人間だった。「今日会った死者が聞いたら確実に非難されるぞ」とか、「まだ生きていられるのに」とか、「寝たきりでもないくせに」とか、色々思った。

 その夕方、僕は本屋へ寄った。
 毎度の如く、僕は文庫本コーナーに吸い寄せられた。その時はホラーコーナーが目に留まった。黒っぽい背表紙の本が何冊も並んでいて、その中で、このタイトルが気になった。
 手に取ると裏表紙のキャプションに「ノンフィクション」と書かれていたから、中身を少し読んでみた。目次から「ピエロ」という活字を見つけた。
 その章を数ページ読んだところで、持って帰りたい、と思った。得た情報を覚えておきたかったのだと思う。インターネットで調べるより詳しいと思ったし、記憶だけでは覚えきれないから買おう、という勢いがあったはず。更に挙げるなら、僕は「サンタクロース」と「チカチロ」にも興味があった。
 会計時、店員さんが何も言わずにブックカバーを付けてくれた。過激なタイトルと表紙だったから助かった。店員さんに引かれていたような気もする。少し恥ずかしかった。また変な本を買った、と自嘲した。傍らで、自分の読みたいと思う本を見つけられたのが嬉しくもあった。

 この本を読み終えるまで、4ヶ月ほどしかかからなかった。僕の中では早かった。1章を1回で読み切るようにしていたため、文章を読んでいた時間はもっと短い。
 特に決めていたわけではなかったが、眠れない夜か寝過ぎた夜に読み進めていた。目次を開いて、その時に読みたい章を一気読みする。小説ではなかったため、どの章から読んでも問題ないのが良かった。僕は、このハイテンションな本を夜に読むのが好きになった。不規則に過ごす僕へ、丁度いい満足感と戒めを与えてくれた。

 読み終えるまでは、そんなに時間がかからなかったのに、この記事を完成させる事には時間がかかりまくっている。
 この『異常快楽殺人』という本を読み終えたのは、今年1月27日の午前2時過ぎだった。本を買ってから数日は、こういう感想記事を作るつもりはなかった。この本はノンフィクションの物騒な話しか載っていない本だ。読書家でも評論家でもなければ学者でも検事でもない僕がこの本の感想を書いたところで、誰かを救えるとは思わないし、寧ろ誰かへ刃を向ける事になりそうだと思った。だが、最後の『おわりに』を読む頃には、この作者さんが殺人者を探究していた気持ちが少し理解できている気がして、その複雑な好奇心や興味を僕なりに書き留めておきたいと思った。
 初めのほうに読んだ章は一言程度の感想しか残していなかったため、この記事を作るにあたり、それぞれの章を読み返しながら感想文を作った。感想文を書くつもりがなかった時点でも短い感想を残していたと思うと、最早それは僕の性-さが-なのかもしれないとも思える。自分でも引いてしまうが、なんとなくそういう執念が生まれてしまっていた。それは不思議な本のせいか、僕のせいか、分からない。どちらでもいい。

 これは余談だが、『エドワード・ゲイン』の章を読む時、何を血迷ったか僕は鼻先を洗濯ばさみで挟みながら読んでいた。あろう事か、その状態で1章を読み切り、痛みに耐えられなくなる寸前に洗濯ばさみを外した。深夜2時台の出来事である。
 君は知っているだろうか。鼻先を洗濯ばさみで挟む場合、挟んだ瞬間よりも挟んでから数時間後に外す瞬間のほうが痛むという事を。存外、鼻にも痛覚があると分かり、鼻も血の通った肉なんだよな、と思った。どうだ、君は僕が気を衒っていると思うかい。

 また余談だが、僕はこの文章を作りながら、お歳暮用のロースハム450グラムにかぶり付いていた。賞味期限は今年の2月8日、かじっているのは3月22日だった。正月の終わりに「早めに食べなさいね」と当時は入院患者だった人から頂いたハムだ。生ハムの味がする、と思いながら食べていた。
 この感想文を書いていると無性に腹が減る。ひと月ほど期間を空けて久しぶりにこの作文に手を付けた日、えげつない食欲に襲われてびっくりした。単に、脳を使っているから腹が減るならまだいいが、そうではなかったら……なんて考えてしまった。どうだ、これでも君は僕が気を衒っていると思うかい。

 更に余談だが、『アンドレイ・チカチロ』の感想の中で僕が書いた僕の「衝動」は、要するに、墓参りに行ってきた僕が死に関する本を買ったという事であって、「その気がなくてもその一点へ引き込まれてしまった」みたいな事は起こりうるのだろう、と思う。墓場に行く人間の精神状態は異様に静かだから、普段は考えない事でも気に障って、その事に思考が引きずり込まれてしまうのかもしれない。あるいは、僕が影響されやすい性質である、という可能性もなくはない。しかし、骨格標本を見たからとて、自分の骨も見たくなるような事は特にない。これも不思議だ。
 そしてもうひとつ、僕は歌の歌詞でチカチロを知ったと書いたが、その歌にはゲーシーもゲインも出てきていた。それは今日、分かった事だ。面白すぎる。その歌というのは、特撮の『殺神』だ。どこがサビだか僕には分からないのだが、サビだと思われる節が伸びやかで勇ましく、ボーカルの歌声がかっこよく響く楽曲である。僕の好きな歌でもある。もう少し詳しく書くなら、この歌のファンがこの歌を歌っていたのを聴いて僕はこの曲を知ったのだが、その声の主が道化師であり、僕はその道化師を好いている。どうだ、ややこしくて笑っちゃうだろ。

 口直し(目直し?)の余談だが、僕が前に買った小説本もこの本も、死に関する事を題材に作られている。本屋にはそれ以外を題材にした本もごまんとあるのに、なぜ僕はそういう題材の本を選ぶのだろう。
 もしかすると、僕は死と向き合うのが好きなのかもしれない。まぁ、それは暗く思えるが前向きな興味だと思うし、この好奇心があるから僕は図太く生きていられるのかもしれない。
 僕がいつか死を体験する時、恐れずにいられるならそれがいい。タフネス、万歳。死に関してを題材とされた本、万歳。

 僕は僕の思うように生きていたい。その上で、自分の道徳性を大切にしていたいし、時々それを律していきたい。嫌な事があっても人や物には当たりたくないし、これからもそうありたい。自分のケツを自分で拭える人間でいたい。



 以上、今回はここで締めとさせていただく。
 最後まで読んでくれた君へ、ありがとうビームを送ります。ありがとうビーム!


 この世に生きる全てが、その命に満足しながら生きていられますように。
 悲しみや憂いが少しでも早く晴れますように。
 死に方は自身で選べる世の中でありますように。
 転生できたなら、その命も大切に全うされますように。


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