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何事もなかったかのように

まず全ての事実確認は慎重に。



安倍晋三元総理が撃たれた。日本にあるとも知られていなかった散弾銃で。

間違ったときに、間違った場所にいてしまった人たちのことを考えている。
In the wrong place at the wrong time ー この日、運が悪かった人がたくさんいた。

安倍氏もそうだし、なんなら容疑者もそうだろう。その場に居合わせた、トラウマになるであろう大勢の人たちも。彼女ら彼らは、間違いなく、「間違ったときに、間違った場所にいた」。

でもそれよりも、こんな日に旅行をしていた人、ディズニーにいてしまった人、なにか発表の本番があった人、のことを考えている。なんなら、そんなイベントがなかった人も。LINEの返信の手番がたまたま自分に回ってきているタイミングだった、そこのあなたと自分。そういう人たちのことを考えている。

どれだけの影響があるかも現段階では分からない、けどその規模の大きさは何となく分かる。家族、友達、街ゆく人、他人、その日目にする人全員が何らかの影響を受けるであろうことは分かる。 ー そんな状態。だから、この断絶を越えて、LINEを開いて明後日のご飯の予定について話し合うことは難しい。はずである。

おそらくこの事件は、地下鉄サリンとか、9.11とか、二・二六とか、そういうあらゆる短時間の歴史的事件に匹敵する可能性のあるものである。9.11というものはそれを生きたアメリカ人の話を聞くと面白くて、「9.11前」と「9.11後」という時間的区分が自然となされる。それは実際、そのあとしばらくして色んな政策を動かして全国的な影響を持ったからだ。この事件も、日本の警察のさらなる武装化とか、感化されて起きる二次的な政治運動とか、そういうのに繋がる可能性が高い。

ただ現時点では、これを何事もなかったかのようにスルーしなければいけない人たちもいる。

だってディズニーにいたら絶対に楽しまなくてはいけないし、演奏の本番が控えていたら是が非でも奏でないといけない(音楽は止まらない!)。平日の昼、仕事をしていた皆さんは、ひとまず何事もなかったかのように対応しなければいけない。楽しかったことを、なかったことにはできない。9.11の発生直後、ブッシュ大統領は幼児に絵本を読み聞かせ中だったらしいが、ニュースを聞いた後それを読み聞かせ終えた。その読み聞かせの中間で完全な時空の断絶があった。ニュースを知っていた人だけが、その断絶=非日常を共有した。

まあ、このタイミングで、めっちゃ人生楽しんでます感を公に出すことは難しいはずだと思ったけど、これも華麗にスルーできる人たちはいた。少数ではありつつ、そのときやっている楽しい美味しい幸せ〜〜を投稿できる人たちがいた。

すごい、と思った。自分にはできない。でもこれは、非難できない、というか非難してはいけない営みかもしれない。それは上のツイートで言ったように「日常感を取り戻して再共有する」営みだから、あえて無視して心の平穏を保つことも、そのときたまたま幸せで「あってしまった」ことも、絶対に責めてはいけない。踏み外したのは社会のほうであって、幸せである個人になんの罪もない。公に出さないでくれるほうがよかった、とは思うけれど。

だって何と言っても、この事件が起こって3時間あまりした現在、我々の物理的世界には「実際何事もなかったのだから」。何事もなかったのだから、何事もなかったかのようにする、ということ。

でもさすがに、大多数の日本の高校生・大学生にとって、このSNSゲームでの支配戦略は当然、その日のハピネスを「投稿しない」ことになる。実際、なんだか全般的に日本人からのストーリーや関係のないツイートが減ったと思う。もしくは、ただそのニュースをリツイート・リポストする、ぐらいが中央値になるかもしれない。

ただこのSNSの使い方は非常に文化的である。私が持っているだけでも、違う界隈に目を移せば景色が全く異なる。

アメリカのリベラルアーツカレッジでは、間違いなく「ただちに激つよの言葉で非難する」が正しい対応である。あの場所には、黒人が撃たれ、人口中絶が違法化され、石油会社がパイプラインを作るニュースで涙できる人たちがいっぱいいる。日本の政治家やリベラルTwitter界隈でも、安倍嫌いのみなさんがそういう対応に迫られた。すべての感情を抑えつけて、くるっと手のひらを返すことが求められた。それはそれで大きな問題だと思う。いま参院選を戦わねばならない人たちにとって、何事もなかったかのようにあと数日のあいだ自民党を非難し続けることは至難の業である。

とにかく、いろんな感じ方があるというのが現実世界であるし、そうあるべきだ。そして、この疲れた金曜日の仕事中にみる、絶望的に開いてしまったこの感性のギャップ ー 事件がその人にも何らかの影響を持つ恐ろしさを漠然と分かりながら、その人の美味しく幸せなインスタをみる ー こそが、今回の事件を引き起こした。今回は事件の規模が近くてデカいけれど、それが世界の反対側で起きようが、自分とアイデンティティを共有しない人が当事者だろうが、自分ごととして感じることができるか。

自分の感情を抑えつけることなく、自分ごととして感じることができるか。

実際何事もなかったときに、何事もなかったかのように生きるか。自分の日常が、誰かの非日常であると想像力がまわるか。何事もなかったかのように、その想像力をまわせるか。


んじゃ仕事にもどる。

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