東京23区に73か所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [14]砂町富士(富賀岡八幡宮)[15]深川八幡富士(富岡八幡宮)[16]亀戸富士(亀戸浅間神社) その1
東京と水。
徳川家康と富士。
改めて不思議に思い、考えました。
富士塚は、
なぜ東京にこんなにも造られ、残されているのだろうか
富士山のパワーは当時の人々にどれほどのものと考えられていたのでしょう。
江戸時代から現代の東京まで続く、
この都市の繁栄を徳川家康は見抜いていたのだとしたら、この地形と水との関係が、
繁栄するには最適地だったということなのでしょうか?
今ほど正確で緻密ではないデータをもとに
江戸という街を興していった家康。
その後続く徳川家の天下。
現代の東京の基礎を築いた家康の戦略を考えた時
彼の先見の明と強運とを思わずにはいられません。
そしてその構想の中に
富士山という存在があったのではないかという思いが
わたしの富士塚への好奇心を更にかきたてるのでした。
前回に続き、今回も水と関係の深い街にお邪魔しました。今回は江東区に3か所あるという富士塚関係の場所にお邪魔いたしました。
富士塚自体はこの中に一か所しか残されていませんでしたが、今回はこの街の江戸と水との関係を中心にめぐっていきたいと思っております。
その1では
まず、その一つだけ江東区に残されている富士塚に向かいたいと思います。
東京メトロの東西線「南砂町駅」で下車。
砂町富士をめざします。
ところで。
今回の2か所はちょっと似ている名前なのです。
富賀岡八幡宮と富岡八幡宮。
さて、その「書かれていた」というのが下記の図から確認できます。
あ!信号機にも元八幡ってありますね!
ここから歩いてすぐのところに、
あ!
富士塚がみえました!
かなりりっぱで堂々としています!
周りにはいたるところにこんな立て札が・・・
「注意 危ない 落石あり 山え登らないこと(事故責任は負いません)当宮」
確かに険しい山ではあります。
でも、登拝禁止って訳じゃないんだよね…?
せっかく来たのだし、登りたいなあと思いながらしばらく周りをうろうろ。
立派な石碑が沢山あります。
ここで改めて富士山の全体図と、富士塚の基本構造を確認してみたいと思います。
富士塚といえば有坂蓉子さん!というくらい、わたしはこの方の資料にいつも大変お世話になっておりますが、
今回も有坂さんが書かれている本に載っていました情報がとてもわかりやすいため、お借りいたしまして、説明させていただきます。
さて富士塚には下記のようなものが配置されております。でもすべての富士塚にというわけではないため、これらがあると「あったあった!」と嬉しくなります。
さて、どうしてこういうものが置かれたり造られたりしているのかというと、
本物の富士山を真似ているからなんですね!
このようなことを頭の片隅において富士塚を巡り眺めると一層楽しくなってまいります
この砂町富士はなかなかに石碑も大きくアイテムにも力を入れているように感じられます。
当時この富士講に勢いがあったということがわかります。
誰もいないことをそっとたしかめ、
登拝をはたしました。
足場は結構危なっかしくてドキドキでしたが山頂からの眺めに「やはり登ってよかった!」という満足感を味わいました。
山頂には「浅間嶽大日如来」の石碑が。これは富士山の方角にあるのだそうです。
さて、ここで江東区深川周辺の江戸切絵図と現在の観光マップを見てみたいと思います。江戸当時と現代のものを同じ向きでおいてみました。
どちらも一番上の川に永代橋があるのがおわかりになるでしょうか。
切絵図のほぼ真ん中に縦にまっすぐとおっている小名木川が現代の図にもみられます。
この川は今から400年ほど前に徳川家康の時代につくられました。
この川のことはまた後にご案内したいと思います。
切絵図左側にこの砂町富士のある富賀岡八幡宮もみえますがこの位置は現代の地図でみると富岡八幡宮の位置のようで、不思議なのです。このあたりのことも後ほどまた浮世絵などと一緒に見ていきたいと思っております。
ちなみに最初の方でご紹介しました砂村という場所は上図の切り絵図ですと左下の緑の場所になります。
砂村は後に農業が盛んな場所になり、砂村新田は江戸近郊の農産地として、スイカ、カボチャ、キュウリ、ナス、ネギなどが特産品でした。
さて今回はこの辺までとなります。
その2では富岡八幡宮、
その3では亀戸浅間神社をご紹介したいと思います。
引き続きよろしくお願いいたします
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