赤羽末吉氏の絵はいいなあ。
絵本「スーホの白い馬」に出会ったのは
こどもたちが幼かった頃読み聞かせをしたことがきっかけでした。
ものがたりもさることながら、
画の構図や表現、色使いの美しさに感動しました。
こどもたちが大きくなってからも、一人何度も何度も読み返し、
「赤羽末吉」という画家に魅せられ、
はじめて聞く名前だと思っていたのに、
その後「かさじぞう」の絵本を見た時、
ああ、この絵だったら以前から知っている!とおどろきました。
自分が幼い頃感動した絵本を描いた人だったのか!
と。
「赤羽末吉」という人について、もっと知りたいと思い、今回いろいろな資料をもとにまとめてみました。
たくさんの資料をみながら、
まずは一番心に残ったエピソードから。
この絵は「樹下美人」といい、
正倉院に伝わる屏風『鳥毛立女屏風』の一つだそうです。
赤羽末吉氏は
満州を引き上げる際、
さらしを腹に巻いて、その中にこの絵を納めました。
そして、この絵にはこんな思いを抱いていました。
赤羽末吉氏の「絵を描く」ことに対する思い。
ステキだなあって感動しました。
こういう志をおもちになりながら、
「誓い」をおなかにまいていただなんて。
「人間としての魅力」ともいえるようなこの目標を
わたしの心にも刻み込みたいと強く強く感じました。
赤羽末吉氏の略歴を
ここに記載させていただきたいと思います。
1910年5月3日東京神田美土代町生まれ。
八人兄弟の末っ子だったため
「末吉」と名付けられました。
13歳のとき赤羽家に養子に入ります。
映画や立ち絵、演劇に夢中になり、舞台美術家になることを夢見たことも。
中学卒業後に日本画家のもとに入り1年ほど学び、
21歳の時プロレタリア美術研究所に3か月滞在。
八島太郎(「からすたろう」の作者)にデッサンを学びました。
この翌年の1932年に満州へ渡ります。
すでに渡満していた姉のつてで大連の運送会社で働き始めます。
その頃古本屋で発見した絵雑誌「コドモノクニ」(初山滋の絵が表紙)をきっかけに、しばらく離れていた絵をふたたび描き始めるようになりました。
1934年に結婚。24歳の時でした。
36年に「絵描きをほしがっている」という満州電信電話株式会社に転職。
1940年満州国美術展覧会で特選。
この頃若い画家たちと「黄土坡美術協会」という画家集団も結成。
満州国美術展覧会で受賞したことが宣伝にもなると、会社も寛大になり、広報関係の部署にうつり、満州各地へ取材に出かけることも多くなりました。
カメラで写真をとり、スケッチをしました。
1945年に戦争が終わり1947年に帰国を決意。船に乗るまでの40日を倉庫で過ごし、ようやく出航しますが、ハシカが発生したため23日間の隔離を余儀なくされます。
11月東京月島の兄の家に落ち着きましたが
12月に2歳の次男を、
翌年1月に次女を、
4月に長女を相次いで亡くすことになります。
1952年42歳の時にアメリカ大使館の文化交換局展示課に勤務。
アメリカの文化を日本へ紹介する展示の仕事が主な仕事だったそうです。
1958年頃に福音館書店の松居直氏を訊ねたことからデビュー作「かさじぞう」につながっていきます。
「かさじぞう」の刊行は1961年51歳の時でした。
ここまで年譜を追ってみてわかるのは、
絵をしっかりと習うということはほとんどなく、
独学で「画家赤羽末吉」という世界を作り上げた人だということ。
約50歳ではじめて絵本を手掛け、
その後次々と絵本を出版し、
様々な賞を受賞されました。
亡くなられたのは1990年6月8日。
80歳でした。
「スーホの白い馬」はいつみても、何度読んでも感動します。
でも今回はじめて手にする本で、
心がじんとするものがありました。
宮沢賢治作「水仙月の四日」という絵本です。
わたしは、宮沢賢治の作品がずうっと、苦手でした。
何を言っているのかよくわからないというのが理由でした。
たくさんのかたが宮沢賢治の良さを力強く説明してくれようとしてもわからないものはわからないと、ほとんどの作品は食わず嫌いなまま突っぱねてきました。
だから今回もおそるおそる手に取りました。
かみしめるように読み、
情景を思い描き、
ああ、わかる!わかるわかる!
と何度も読み返しました。
雪の静けさとか
恐ろしい寒さとか
荒れ狂う風の声がまじかに感じられ、
もうこれ以上もこれ以下もないような「そのもの」の表現に驚きました。
雪童子のやさしさがひときわあたたかく
冬の厳しさと対比するのでした。
そんな宮沢賢治の世界を赤羽末吉氏の画が美しく静かに寄り添い。
心に染み入るようでした。
赤羽末吉氏の雪の表現には
その他の絵本でも感動する場面がたくさんあります。
山形の最上からの開拓団の地を訪ね、雪国に住んでいるた人々の生活に触れたことや、秋田・男鹿半島の風俗を追い現地で力強く生きる人々が映し出された写真集「雪国の民俗」との出会いなど
赤羽末吉氏は、満州の地にいながら、
日本の雪国へのあこがれを抱くようになりました。
そして帰国後6年にわたる雪国通いが始まります。
スケッチブックとカメラをもち、秋田、新潟、福島を歩き回りました。
飯山線で豪雪地帯を旅した1956年のスケッチブックには
こんなことも記されています。
この「つるにょうぼう」の場面などをみると、
雪国で生活してみないとわからない厳しさと美しさを感じます。
わたしは、この場面で降り続ける雪が墨色で表現されていることに、最初気づきませんでした。そのくらい「黒い雪」に違和感がなかったのです。
あらためてじっくりみても、この画にとても合っていると感じます。
この雪の深さと墨の色が
厳しい寒さと、鶴が人間になっているということがまるで不思議ではないという、現実離れした世界をうまく表現しているように思えます。
また、綿密な現地取材をもとに描かれた「かさじぞう」は、かすりの着物にもこだわりをもって描かれたのだそうです。
背景なども
水墨画の存在感によって雪の表現が力強く感じられ、
表現の工夫やこだわりを感じます。
赤羽末吉氏は
「日本のこどもに、色の少ない簡素な美しさを知ってほしい」という思いでこの「かさじぞう」の絵本をつくったのだそうです。
わたしは幼い頃にこの絵本をみたのに、
「かさじぞう」といえばこれしか思い出せないくらい印象的な作品です。
「ゆきむすめ」では、
雪女という妖性やつめたさに
また趣向の違う表現をみせてくれています。
このなんともいえない青さが美しさと寒さと怪しさをひきたてます。
赤羽末吉氏の画はとても色がきれいだなあと感じていましたが、
今回調べましたら、
やはり色にとてもこだわりをもっていらしたということを知りました。
1932年の22歳から37歳までの間
赤羽末吉氏は満州で過ごしました。
雪の積もらない満州の大地で日本の雪国に湿潤な風景に思いを馳せ、その風土の違いの中で「色」の存在の大事さに気づいたといいます。
「スーホの白い馬」を単行本化する話がきたときも
のだそうです。
本当にその赤色が美しく、この絵本を一層ひきたてていると感じます。
この絵本は1961年に一度描いた「スーホのしろいうま」を描きなおしたものだということを今回初めて知りました。
最初の本は表紙も入れて18ページで展開する月刊絵本。スペースの都合上1ページに入る文章も多く、絵はコンパクトにおさめなくてはならなかったそうです。数年後に再度出版する機会を得て、雄大なスケールを子供たちに見せたいと当時は珍しかった横長の大型版で、48ページの本を提案したところ、出版社の合意を得て実現しました。
全編に地平線を流し、その壮大さを強調したといいます。
この絵本の完成までには2年かかったのだそうです。
また、競馬が始まる前、人々が集まっているページではスーホと馬以外から色をとり、ページをめくった次の真っ赤な競争のシーンを色彩的に盛り上げる工夫をしています
これを「色のドラマ」といい、
また王様がスーホを罵る場面を「構図の場面」と呼びました。
また、このほかにも赤羽末吉氏の作品でわたしがすきなのは
墨でサラリとかいたような柔らかい線と
日本画の顔料をしみこませただけのような作品で、
絵本「わらべうた」(偕成社)という絵本で多く使われています。
赤羽末吉氏が満州時代に夢中になって収集したという土俗人形の絵もまた心惹かれます。特に熱心にあつめた「パンプタオ」という起き上がり小法師人形の画がたくさんかかれたものが色もきれいで形もかわいく、本当に素敵でときめきます。
今回赤羽末吉氏の作品にかこまれ、
改めてそのすばらしさにうっとりしました。
心ときめくものは、
本当に元気をいただけるなあということを
更に再確認させていただきました。
参考文献:
・画集 赤羽末吉の絵本
・赤羽末吉 絵本への一本道
・私の絵本ろん 赤羽末吉著
・絵本画家赤羽末吉 赤羽志乃著
・2010絵本BOOK END 特集生誕100年赤羽末吉
・絵本作家のアトリエ
・スーホの白い馬
・つるにょうぼう
・かさじぞう
・だいくとおにろく
・ももたろう
・へそもち
・おおきなおおきなおいも
・あかりの鼻
・わらべうた
・水仙月の四日
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?