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ノー・カントリー・フォー・オールド・メン

6月13日にコーマック・マッカーシーという作家が亡くなったということを新聞で読んだ。わたしはこの作家を全く知らなかったが、享年89歳というのを知り、昨年末亡くなった母と同じ歳だったんだな、と思いながら、その新聞記事の先を読み出した。

「ノーカントリー」という映画の原作者なのだという。この映画も全く知らない。ふうんと思いながら検索。2008年の映画らしい。予告編を見た。

わ・・・・

新聞記事にはこの原作の邦題は「血と暴力の国」とあった。そのとおりの映像。もうまったくそのまま。あ、わたしには見れないかもと思ったが、同時になぜか原作に興味がわいた。この新聞記事で紹介されていた書評の中にあった、この作家の言葉の表現がとても興味深い。

(前略)麻薬組織の金を持ち逃げして殺し屋に追われているルウェリン・モスは、ヒッチハイクの女の子にこんなことを言う。「かりにきみが今どこだか知らない場所にいるとする。するときみが本当に知らないのはほかの場所がどこにあるかってことだ」道を見失った人間にわかるのは、今立っている場所だけだ。どこへ向かえばいいのか、本当の意味ではわからない。モスは恐ろしい殺し屋に追われている。だから、この一文は彼が自分自身に言い聞かせているのだと解釈することもできる。「かりにおまえが自分を見失ったとする。するとおまえが本当に見失っているのは他人がどう出るかってことだ」実際、モスは殺し屋についての読みを間違えた。金を返せばおまえは殺すが家族はたすけてやるという殺し屋の約束を信じることが出来なかった。そう、その時点で最悪の結末はもう予言されていたのだ。

日経新聞 「コーマック・マッカーシーという羅針盤・彼の言葉で埋まった読書ノート」東山彰良

わたしはこの本が図書館にあるかすぐに調べて予約をした。届いたという知らせを受け借りにいく。表紙もかっこよくてわくわくした。予告編の映像の色合いなどにも心惹かれていたのだが、その時と同じような風景のある装丁にグッときた。また、予告編の中での殺し屋の俳優の存在感がすごく濃くて気になっていた。この男性も全く見たことがなかったが、調べたらハビエル・バルデムという俳優で、その優しげに笑う写真からは「ノーカントリー」の殺し屋と同じ人物とは思えないくらい印象が違った。わたしは「怖い映画」が基本的には苦手で、その「怖さ」の理由も様々にあるはずだが、わたしが「これは怖い映画」と思ってしまったらもうそれだけの理由で観れないと決めつけてしまうことが多かった。でもこの映画はなにか違った。なにか気になる。ハビエル・バルデムの「怖さ」が知りたくなって、この映画がとても観たくなっていた。

あ!夫はこういう映画好きそうだな。この映画知ってるだろうか?とふと思って、なんのきなしに聞いたら、うん持ってるよという。え?持ってるって?夫はこの映画を観たことがあるどころかDVDを持っていた。コーエン兄弟の作品が好きという夫。まさか家にあったとは。


でもまずは小説を読んでみたい。この訳者の黒原敏行さんも訳がうまいのだろう、最初からとてもよみやすくてぐいぐいひきこまれていく。

  少年を一人ハンツヴィルのガス室に送り込んだことがある。そんなことは後にも先にもその一人だけだ。おれが逮捕して法廷で証言もした。刑務所へに二、三度面会に行ったよ。たしか三度だ。三度目は処刑の日だった。行く義務はなかったが行ったんだ。行きたくはなかったがね。それは十四歳の女の子を殺した少年で今もはっきり言えるが面会なんか行きたくなかったし処刑なんぞも見たくなかったんだが、それでも出かけて行ったんだ。新聞はクライム・オブ・パッション(激情犯罪)と書いたが、当人はパッション(感情)なんて何もなかったとおれに話したよ。女の子はまだ十四歳だったがとにかくその少年と付き合っていたんだ。少年のほうは十九だった。少年が言うにはずっと前から誰か人を殺そうと思っていたそうだ。(つづく)

「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」冒頭部分抜粋

わたしは、殺し屋がでてきて、人をたくさん殺す映像が怖い。だけど、人を殺す人間がどんな人間として語られていくのかということについては興味深いと思っている。それをどんな物語と言葉で表現しているのかというのはとてもおもしろそうだと思う。

まずはその言葉を追ってみたい。映画はいつでもみれることがわかったので、小説から読んでみたいと思っている。自分の世界が少し広がったかもしれないことがうれしい。




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