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東京23区に73か所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [14]砂町富士(富賀岡八幡宮)[15]深川八幡富士(富岡八幡宮)[16]亀戸富士(亀戸浅間神社) その3

この日はとても暖かく、河津桜が満開でした。

かわいいなあ




さて、本日は江東区の富士塚その3は亀戸浅間神社にむかいます。今回も長ーい記事になります。よろしくお願いいたします。

こんな名前の通りがあるんだ!と、びっくり

実は今回、この「亀戸浅間神社」には富士塚はないと聞いたので、あまり期待していなかったのですが…
でも来てみて良かった~!
とっても重要な場所だったんです!

近くまで来たら、「亀戸浅間神社」の旗がみえてきました。

この遺跡を街が大事にしていることを感じます

つきましたー!
わあ~立派でキレイです!

お邪魔します!

大永7年、室町時代より、富士信仰が最も盛んな時代に富士山の御守護神、木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)をお祀りしています。
もともとあった本殿は江戸大震災と関東大震災で被災してなくなってしまい、現在あるのは昭和10年に建てられたものだそうです。
縁結び、良縁、子宝、安産、などなどのご利益があります!
そしてサイトを見させていただきましたら、年間を通してさまざまな行事をされていて、地元の方にとっても愛されている神社ということがわかりました!


さて、今回の江東区編富士塚その1にてご紹介した、まちの絵地図で、この場所を見ますと、こんな絵が・・・

上のほうにある赤い丸で囲まれたところです

あ!これなんかみたことある!
そうなんです!ここは夏と年越しに関東一の巨大な茅の輪が置かれるところなのだそうです!
わあ!すごいすごいー!行ってみたいー!

はて、茅の輪(ちのわ)とはなんだろう・・?(知らんのかーい)

「茅の輪くぐり」というのがあるんですね!
夏越の祓は6月30日頃に行われるようですが、
12月31日の年越しの祓と対となり、二つの神事をあわせて「大祓(おおはらえ)」と呼ぶのだということを今回知りました。

茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの輪をくぐることで災厄を祓い無病息災を祈願するという行事で、日本神話のスサノオノミコトに由来するとか。

「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」と唱えながら三度くぐりぬけるのだそうです。(でも、このくぐり方、神社ごとに異なるようです。)

石川県・羽黒神社サイトより

わあ、調べてみたら東京では根津神社、東京大神宮、芝大神宮、鳥森神社、神田明神などがこの行事をされていることがわかりました!

他にも日本各地で、できるところがいろいろあるんですねえ!行ってみたい行ってみたーい!


さてさて、境内にお邪魔させていただきます。

手水舎がさっそく富士山です!トキメクー😍

この「玉」は深川の富士講、山玉講のしるし。
寛政7年(1795)奉納されました。

この入れ物は天水桶というものだそうです

まるのなかに「不二」という文字が。これは丸不二講。
これは明治33年に奉納されたものだそう。
丸不二講は亀戸村の講。

この神社には石の鳥居がいくつもあり江東区登録有形文化財になっていました。

稲荷神社(宇迦之御魂神)と下浅間神社(大黒様・恵比寿様)


こちらも江東区指定有形民俗文化財で
「富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道 道標」というもので、浅間神社、亀戸天神社、常光寺(六阿弥陀)、浅草へ至る道しるべなのだそうです。
昔はめじるしもなにもない道を歩いていくのですもんね。こういう道標が大事だったですよねー!

享和元年(1801)10月、良歓が願主となり、本所六つ目の地蔵講中が建てました。竪川沿いの佐倉街道と、浅間神社に至る道との分岐点に、正面を東に向けて建っていたと推測されます。
当時の絵図にみられるように、浅間神社から北西方向に道なりに進むと水神社に行き当たり、左手に折れると亀戸天神へ、右手に折れると常光寺に至ります。浅草へは、常光寺から来た十間川沿いの道をたどったものと思われます。
道標は角柱型で、頂部は若干盛り上がっています。正面の縁、両側面、背面にはノミ切り仕上げで、一定の幅でノミ筋を残しています。正面中央は一段低く彫り、表面を砥石による磨き仕上げとして、銘を刻んでいます。
道標は、浅間神社ほかへの江戸時代以来の古い参詣道を示すとともに、江東区域の名所を表示するものとしても貴重な石造物です。また、近代以降、道の改変が行われていることから、江戸時代以来の古道を確認するための手がかりを与えてくれる、地域の資料として重要なものです。

現地説明板にて
この地図はとてもわかりやすいですね!
この水神社という名前が気になり、このあと探しにいきましたが、どうにもたどり着けず、
夕方になってしまったため、あきらめて家路につきました。
後日あらためて亀戸天神とともに訪れたいです。
ああー。なんか今みるとますます興味深くなってきました。
いかなくちゃー!

いまならわかりやすい地図やらめじるしやらスマホやらたくさんあるのに、いつも道に迷ってたどりつけないわたし…なさけないなあ。

でも、昔の人は道間違えて全然違う方に行ってしまったら間違えたじゃすまないというか、それこそ命懸けだったかも…ですよね。
もっと人間本来の感覚もするどかったのかもしれないなあ。

いや、わたしももっとするどくなるぞ!


あ!こちらは看板に「身禄」の文字が!

身禄様とお会いできるとは!
ここで少し富士講の復習をいたします。

まずは「長谷川角行(はせがわかくぎょう)」という人のことから。
この角行は、室町時代にいた多くの行者のひとりであり、
のちの富士講の教典の根本をつくりました。

角行は神道でも仏教でもなく、また修験道ともちがう独自の修行を行い、呪文めいた護符を庶民に与えて信頼を得ていたようです。

この後何代かを経て、約100年後「食行身禄」(6代目といわれている)によってこの信仰が世間にしられることとなります。

「食行身禄」というこの名前は行名で、もとは伊藤伊兵衛という人物。
三重県の農家に生まれました。10代で江戸に出て富士行者(角行の教えを受け継ぐ月行(げつぎょう))に出会い弟子になります。
のちに自ら「身禄」と名乗りました。

身禄が、他の行者と違ったのは富士山7合5勺の烏帽子岩で31日間の断食をして死んだことでした。このことは「三十一日之御伝」という書になって、のちに富士山信仰を持つ人たちに衝撃を与えました。
烏帽子岩はいまも8合目の山小屋の隣に立っている巨岩だそうです。
烏帽子岩神社も祀られているとか。

そして、身禄の弟子のひとりだった植木屋の高田藤四郎が富士塚を造ったのは身禄の没後46年目の安永8年(1779)のことでした。
もともと富士信仰はあったのですが、この富士塚の登場がきっかけとなり、富士講がもりあがり、富士塚造りがブームとなっていきます。

さて、いよいよこの亀戸浅間神社の敷地内にあります、富士塚跡を見に行ってみたいとおもいます!
有形文化財の石造鳥居をくぐっていきます!

この鳥居の黒さは東京大空襲の戦災の火をかぶり
このようになったとのこと…
「笄塚」の説明はまたのちほど!


こちらでは、江戸後期に簡易的な富士塚が築かれていたとされていますが、富士山から溶岩を運び富士塚を築きあげたのは明治11年(1878)頃と考えられているようです。

あ!神様の使いとされる、猿がいますね!
石碑も数多く残されていました
「笄塚」の伝説をここでご説明します

日本で最初に作られた歴史書である「古事記」には日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后である弟橘媛(おとたちはなひめ)の美しくも儚い(はかない)お話が載せられています。
今から約二千年もむかし、父景行天皇(けいこうてんのう)の命を受け、日本武尊は東国を平定するねく船に乗って走水(現在の神奈川県横須賀市)あたりを通過する時、土地の神様が波をたたせ、通行の邪魔をしたのです。進退きわまった一行、その時弟橘媛が「私があなたさまの身代わりとなって海に入りましょう。あなたさまはお父様の命令を遂行して、無事に都へお戻りください」と自分の身を海に投げたのです。身を投じる際、次のような歌を詠みました。
さねさし さがむ(相模)のおのに(小野)もゆるひえの ほなか(火中)にたちて とひし(問ひ)きみ(君)はも
弟橘媛が、相模国(現在の神奈川県)で火に囲まれた時に日本武尊が身の心配をしてくれたという内容で、死ぬ間際まで夫に対する愛を伝えるものでした。
さて、弟橘媛が身を投げると、たちまち海が静まり、日本武尊は船を進めることができました。また、身を投げた媛の身に着けていたものは波に漂って今の東京湾周辺に流れ着きました。そのうち、神に着けていた笄(こうがい・女性が身に着ける装飾具、結髪具で、髪をかきあげて髷をつくるために用いるもの。かつて女性がはじめて笄で結い始める時には「笄礼(けいれい)」と称し、大人の女性になったことを示す儀礼としてとらえられていました)はこの亀戸の地にたどりついたとされています。かつて亀戸浅間神社がある辺りは「高貝州(こうがいす)」と呼ばれており、その名残を伝えています。はるか古(いにしえ)の夫婦愛、それを伝える痕跡はもはや何も残っていませんが、末永くその伝説を受け継いでいくためにこの碑を建立しmした。

日本武尊・弟橘媛由来の笄塚の碑の説明より

うーん。弟橘媛の愛と勇気、すごいなあ…
なんだか、古事記も興味でてきてしまいました。


小御嶽神社もちゃんとありました!


これは烏帽子岩ではないかなあ!
現代的なモニュメントではありましたが、
ボク石のようなものもあり、威厳があります


また、この神社敷地内には六ツ目地蔵尊という有形民俗文化財があります。

なかでもわたしは庚申塔に興味がわきました。
この石造の下に見ざる言わざる聞かざるがいますね!

このあと、
この近くにある「江東区中川船番所資料館」というところにむかいました。


行く道すがら気がついたのですが、このガードレール、江東区のということなのでしょうか。

水がなみうつようなこのデザイン、街をあらわしていてステキ!シンプルだけど良いなあ!と思いました。たしか、文京区は銀杏がデザインされていたような。じゃあ今自分が住んでいる町のガードレールはどうだったろう?わあ!調べてみたくなりました!


てくてくてくてく・・・
つきましたー!

東京都江東区大島9-1-15
最寄り駅は都営地下鉄新宿線の東大島駅。歩いて5分です

事前にお電話で富士塚のことをお訊ねしてみたところ、そういう資料は無いとのことでしたが、東京都と水と徳川家康の関係がなにかわからないだろうかと思い、行ってみることにしました。

この建物のすぐ横に中川と小名木川という川がながれております。
この下の写真が中川です。

この日はイベントが開かれていて、多くの人が訪れ、皆さん小さなヨットに載ったり、食事を楽しんだり楽しそう!とてもにぎやかでした。


さて、早速、江東区中川船番所資料館にお邪魔いたします!
船番所なんて初めて聞くなあ。なんのことだろう?

江東区は、西に隅田川、東に荒川、南に東京湾と望み、運河や河川が縦横に走る「水のまち」といわれています。
天正18年(1590)徳川家康が関東に入って最初に手掛けたのが都市づくりと物流を支える水路の整備でした。現在の小名木川をはじめ、竪川、大横川、横十間川、仙台堀川などが次々と江東区内に開削されました。なかでも小名木川は、家康が江戸に入って間もなく、行徳の塩を運ぶために開削したものと言われ、利根川や江戸川と隅田川を結び、関東各地の物資を運ぶ河川水運の中枢となった江東区最古の運河です。この小名木川墨田川口に架かる万年橋の北側に、幕府は江戸防衛のため「深川番所」を設けますが、明暦3年(1657)の大火後、町場の拡大や相次ぐ運河の開削に合わせ、寛文元年(1661)に中川口に移します。以後、「中川番所」として夜間の出船や女性の通行、鉄砲をはじめとする武器、武具の取り締まりや物資の出入りについても厳重な査検を行うなど、明治2年(1860)に廃止されるまでの200年余りにわたり、船番所としての役目をはたしました。

「江東区中川船番所資料館」常設展示図録・江東区長の言葉より

ふむふむ・・・

「中川番所」というのは「中川関所」ともよばれていたとのこと。そこを通る人をとりしまるところということですね。それだけこの中川には人の行き来が激しかったということなんでしょうか。


この資料館では、この「中川番所」を中心とした水運に関する資料がたくさん展示されていて、とても興味深いものがたくさんみれました!

関東では平安時代から鎌倉時代にかけて年貢の輸送や連絡の確保のために水路や港が整備されてきましたが、徳川家康が江戸に入り、このあたりをさらに重要な役割を担うまちに変えていったということがよくわかります。
今より工事もずっと大変だったであろう時代に「水運」を広げ、土地を造成していくことに力をいれ江戸を発展させていった事業には目をみはるものがあります。

徳川家康は文禄3年(1594)利根川水系の会(あい)の川締め切りを手始めに、複雑だった関東諸河川の水路を整備し、関東一円の水運網を整える大土木事業に着手します。神田・日本橋周辺の土地造成や江戸秦の整備、小名木川の開削などはその一環といえます。

小名木川は慶長年間(1596~1615)に干潟沿海の水路として確定していたものを埋め残す形で作られた沿海運河です。

今も残る小名木川
徳川家康が水運を整えるために開削した運河

小名木川からさらに東へのびる船堀川も同時期に開削され、江戸城大手門から小名木川・船堀川を経て江戸川・利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されました。

荒川は利根川と切り離され、和田吉野川、市野川、入間川を本流とする流れに変わり、それまで江戸湾に注いでいた利根川は常陸川を経て銚子河口へ流路に変更されました。
これにより海運あるいは常陸那珂秦(ひたちなか市)より所々を陸送で結びながら河川を使用していた東北諸藩からの廻米(かいまい・江戸時代、諸国から集めた米を江戸や大阪へ回送すること)は、よりスムーズに江戸まで回漕できるようになったのです。


明暦3年(1657)正月18日に本郷丸山(文京区)の本妙寺から出火した火災は翌19日にかけて江戸の大半を焼き尽くしました。焼失町数500余、死者は10万人を超えたを言われています。江戸城もこの時焼け落ちているんだそうです・・・。
下の絵はその時の様子です

明暦大火の様子(国立国会図書館所蔵)

この大火を契機に幕府は江戸の防火政策に主眼をおき、市街地の拡張、整備が行われました。その時に本所深川地域の開発が行われ、武家屋敷や寺院、町屋が江戸市中から移転し、同時に様々な運河が開削されました。
こうして本所深川地域は江戸市中にくみこまれ、町を出入りする船を取り調べることが難しくなり、深川番所は機能を低下させていきます。
寛文元年(1661)に、まだ開発されていない中川のほうに番所を移転し、新たな江戸の玄関口としたようです。

上の図のように、中川から小名木川に入るところは現在はこのような風景になり


浮世絵ではこのように描かれています↓

歌川広重画
「名所江戸百景 中川口」


ちょっとここで
徳川家康とその後続く徳川15代将軍の時代を改めて調べてみました。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は1603年に征夷大将軍に就任し、天正18年(1590)に江戸に入ります。江戸幕府が開かれたのは慶長8年(1603)。以降、江戸時代は260余年にわたし続くことになります。

初代 徳川家康 1543~1616
8歳で父が暗殺され織田・今川家の人質になるなど過酷な幼少期。江戸幕府を開府。就任から2年で将軍職を秀忠に譲り、その後も大御所として政治に関わります。

2代 徳川秀忠 1579~1632
家康の三男。元服の時に豊臣秀吉から一字をもらい秀忠に。父の築いた江戸幕府の権威を確固たるものにしたのが秀忠です。大名たちへの改易や転封を行い、統制力を強めつつ朝廷を抑え、幕府の支配体制を確立しました

3代 徳川家光 1604~1651
秀忠の次男。鎖国、農民統制、参勤交代の制度化など、江戸幕府の基礎を確立。家光は病弱だったため補佐をする家臣たちが登場するようになり、将軍が先頭にたたない幕府運営がはじまります。

4代 徳川家綱 1641~1680
家光の嫡男。病弱で家臣主導の政治システムがすでにできあがっていたこともあり、家綱が表立って政治に関わることはほどんどありませんでした。家臣の意見に常にOKを出すことから「左様(さよう)せい様」というあだ名がついていたそうです。

5代 徳川綱吉 1646~1709
家光の四男。大変な学問好き。元禄文化が花開きます。一方で「生類憐みの令」をはじめとする理想と現実が大きくかけ離れた法令を発布するなど、庶民の間に混乱を呼びました。

6代 徳川家宣 1662~1712
甲府藩主としての手腕をみとめられ、綱吉の養子となって将軍に就任。間部詮房、新井白石といった優秀な人材を登用し、家宣の治世は「正徳の治」といわれ評価されます。しかし、就任からわずか3年で流行病に倒れ、命を落としました。

7代 徳川家継 1709~1716
家宣の四男。父の急死にともない4歳で将軍に。しかし8歳という年齢でこの世を去ります。

8代 徳川吉宗 1684~1751
紀州徳川家を相続。財政難にあった紀州藩を立て直します。手腕を評価されて8代将軍に就任。「享保の改革」に着手します。質素、倹約を掲げてさまざまな改革を行いました。

9代 徳川家重 1712~1716
吉宗の嫡男。幼い頃から病弱で言語障害がありました。自ら政治に乗り出すことはできず、大御所となった吉宗や幕僚たちが政治を支えました。

10代 徳川家治 1737~1786
家重の嫡男。家重の時代から仕えている田沼意次がおもに幕政を取り仕切り、新田開発は通貨政策が行われ、文化や芸術にも大きな発展がありました。

11代 徳川家斉 1773~1841
一橋家出身。15歳で将軍に。将軍の補佐は松平定信が行い、「寛政の改革」がなされました。家斉には側室が40人近くいて、55人の子供が産まれたといわれています。

12代 徳川家慶 1793~1853
家斉の次男。45歳で将軍に。水野忠邦による「天保の改革」が行われました。一方で国内の情勢が次第に悪化し、欧米列強との外交問題がみえかくれするようになっていきます。

13代 徳川家定 1824~1858
家慶の四男。病弱で体に障害がありましたが、一方で学問好きだったといいます。ペリー来航によって国内が混乱するなか、将軍継嗣問題が勃発。家定は井伊直弼に後を託して35歳で逝去しました。

14代 徳川家茂 1846~1866
4歳で紀州藩主となり、13歳で将軍に就任。公武合体政策のために皇女・和宮を妻として迎えます。実直な人物だったと伝わり、内政や外交の問題が積み上がる中21歳で亡くなりました。

15代 徳川慶喜 1837~1913
水戸藩主・徳川斉昭の子で一橋家当主。家茂と将軍職を争います。15代将軍に就任するも、国内の動乱を抑えきれず、「大政奉還」を行い、260年続いた江戸幕府の歴史に終止符を打ちました。


こうやってみると、明暦大火のこの時はもう家康はいないのがわかります。
綱吉の時代だったのかな…


下の図で中川や小名木川がみえます。江戸城と川の関係がすごく重要だったであろうことがわかります。

左下の図を見ると徳川家と関係の関係のふかい
松平家のお屋敷がたくさんあるのがわかります。


今のように車も電車もなかったころは船が主流となって人や物を運んでいたのですね。川沿いには荷物の積み下ろしをする「河岸」ができ、商品や旅人など、たくさんの人でにぎわいました。

天保14年(1843)お江戸地図
この頃は徳川家慶の時代です。
すごい賑やかな街になっていますね!

江戸時代のはじめころは、大名が自分の領地の年貢米などを江戸へ運ぶのに使われていましたが、その後干鰯(ほしか・いわしを干して肥料にしたもの)・醤油・酒など関東で作られた商品も運ばれるようになりました。

川を使った移動が盛んになると、関東各地で様々な食料や
生活用品が創られ、高瀬舟などの大型の船で
江戸へはこばれました。


さて、どんな船で人やものがはこばれていたのでしょうか。
小名木川は川底が浅く、高瀬舟のような大きな船はとおれないため、荷物を艀(はしけ)と呼ばれる小さな船に積み替える必要がありました。深川の海辺大工町と日本橋の小網町には「附船(つけぶね)」と呼ばれる人たちがいいて、奥川筋の荷物を艀に積み替える仕事をしていました。「奥川」とは奥州(東北地方)に通じる水路という意味です。

高瀬舟

江戸時代の川船は水深が浅い川を通れるように、底がひらべったくなっていました。積むものによって形が違い、大きな荷物を積む「高瀬舟」から、2~3人の人が乗る「猪牙船」や「日よけ船」、荷物を積む「荷足船(にたりぶね)」肥料を積む「葛西船」など、いろいろな種類の船がありました。

江戸時代の人たちは遠くへ旅行にいくときだけでなく、お寺や神社へいったり、釣りをするときにも船をつかっていました。
船がとっても身近だったのですね。


下の図は小名木川を描いています。こんなに船がいききしていたんですね!
あらゆる物資を運び、運ばれ、船着き場には問屋や倉庫などの設備が整っていくようすがこの図からもよくわかります

「小名木川の眺望」明治42年

さて、ここまで読んでいただいた皆様、本当におつかれさまでした!
盛り込みたいことがたくさんあって、まとまりのない記事になってしまい、読みづらい箇所もあったかとおもいます。申し訳ございません。

しかし今回、
江戸を巡る水運を整備するために徳川家康が奮闘していたこともいろいろわかり、富士塚を機に町の歴史、日本の歴史がますます興味深くなってまいりました。
もっともっと知りたいなあ!

この川を開削したり船で移動したりしていたときもどこかに富士山はみえていたのではないかなあなんてことも考えながら、その美しい姿を想像しました。

これからも富士塚の旅レポートは続きます。
皆さま今後とも末永くよろしくお願いいたします。


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