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入院日記11日目みんなと仲良くできていたかな。仲良くしてから死んでいきたい。

この入院生活が始まった時すぐに思ったことがあった。

みんなと仲良くできていたかな。

ケンカしたまま死にたくないな、なんて思ったのだ。
気持ちが弱っていたのだろうか。
頭の中の異常と聞いて、一番恐れていたことをアレコレ考えすぎていたかもしれない。
それにまたここで母の最期の言葉を思い出したりしてしまっていた。

ケンカは誰ともしていない。
だから仲良くしていたかな、が大事だ、なんて思った。
私は偉そうじゃなかっただろうか。

最後に会った時、一緒にたくさん笑ったかな。

一緒にいた時は考えもしなかったけど、
たくさんの人たちがいるなかで
出会えた人たちとの奇跡を
じんわりと思ってみる。

こんなこと
みんなに好かれて死にたいなんてこと
元気な時は思ってもみなかった。
嫌われて死にたくない。
それは
自分らしくさえもなくていいとすら思っている。
自分を好きでいてほしいのではなく
ただ、私がいやな奴だったと
思われないようにって願っているようだ。
だって
一度だって私は誰かに嫌われたいと思ったことはなかったのだから。

でも私のことを一時的であっても
嫌う人は当然いたのだと思う。
例えば夫だってそう思うことがあったことは間違いない。お互いね笑。あたりまえ。
なのに
死ぬ時はみんなと仲良くしてから死にたいなんて
あまりに自分がなく、悲しいことだろうか。
あまりに
むしがよすぎるだろうか。

「北の国から」というドラマがあった。
私はこのDVDを近所の図書館でみつけ、小学生の子どもたちと見た。子どもたちは熱心に見ているようにみえたが実は飽きていて、「お母さんが一番よかったと言っていた馬のとことか、よくわからなかった」と感想をもらした。

このドラマの馬のところのことをとてもわかりやすく説明してくださっている noteを見つけた。ご了承もなく載せさせていただく失礼をお許しください。

馬が死ぬことに気づくところや、
杵次がそれを語るところを読んで涙がとまらなくなった。
私は何に泣いているのだろう。
死んでしまったその事実に泣いたのではない。
馬の死に方 
杵次の死に方
それはまさに彼らの生き方だった。
そのことにきっと泣いたのだと思う

そしてこのドラマにでてくるあらゆる人たち の「人間」を物語るセリフの一つ一つがどれも心にせまる。
考えさせられるのだった。


私の今望んでいることは
なんて浅はかなんだろうと本当は思う。
人からの評価にしか価値がないのだと言っているだけではないか。

仲良くしてから死にたい。
でも、あの人はいい人だったよねと心底言われるような人は、ただ仲良しだったからとか、そういう人ではない。

人は人をもっと深いところで見ているものだ。
自分の深いところにある「人間」をみつめ、
そこに響く「人間」を、
無意識に探しているんだと思う。

だから自分の深いところをみつめていないと
足をすくわれてしまう。

私は死を前にして
それを放棄しようとしている。
だれも
私の「人間」には興味を持ってくれなかったであろうことをどこかで察したのだ。
謙遜ではない。当然だと思っている。
私はそんな努力しかしてこなかったことは薄々かんじてきていた。薄っぺらい自分に気付いていた。
だから表面的な評価だけでも良きものとして残せたらと
この場に及んで急いで取り繕おうとしているのだ。

そんな自分を惨めに思う。


昨日一連の治療がまず終わった。
何も変わらない。
だからちょっとおちこんで
こんな寂しい note書いてしまったなー
がんばれ私!


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