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「何もしない日」の罪悪感

ここ数週間、私は仕事をお休みしている。
といっても、仕事を辞めて次の職場に行くまでの少しだけのお休み。
そんな贅沢な休みがもう少しで終わろうとしている。

仕事をしていた時も、今も何も予定がない日にダラダラと1日過ごしていると罪悪感を感じてしまう
この思考プロセスから解放されたいので、なぜ罪悪感を感じるのか深掘りしてみようと思う。

1.時間があるのに何も生み出していない焦燥感

このnoteでもたまに公言しているが、私は趣味でイラストを描いたりVlogを作っている。
SNSを見ていると、TLには誰かの作品が溢れており絵師さんやデザイナーさんの素晴らしいアウトプットでガンガン殴られる気分になる。
そりゃ、SNS自体がアウトプットの場なのだから作品に溢れかえっているのは当たり前だ。

それでも、私がダラダラしている間にみんな努力してスキルを高めているのだ。と何もしていない自分を責める理由が見つかってしまう。

自分がいかに能力主義の人間か痛感する。

2.やるべきことより楽なことを選んでしまう

仮に1ヶ月休みがあるとしたら、皆さんは何をするだろうか。
溜まっていたドラマを見たり、旅行に行ったり、家族と過ごしたり、趣味を満喫したり。
休みとは、時間が取れずできなかった事をたっぷり楽しんだり取り組むための時間だと思っている。
もちろん身体的に疲れていたらゆっくり身体を休めることも大切だ。

私は絵を描く事が好きで、ものづくりをし終わった時にとてつもない充実感を味わう。
なので、時間ができたら絵の練習したり作品作りをすればいいのに、どうも腰が重くNetflixを開いてしまうのだ。

この時にじわじわと思うのだ。
私は「暇だったら絵を描く」タイプではないのだと。
絵を描くことの優先順位が映画・ドラマ鑑賞やSNS閲覧より低いのだ。

「空いた時間全てを絵に費やしていたら、どれだけ上達していたのだろう」

絵の優先順位は低いくせに、他のことをしていると「無駄な時間を過ごしてしまった」と思ってしまうのだ。
そして、「暇だったら絵を描く」タイプに憧れを持つ私は、彼らにはなれないのだと落ち込む。

この優先順位は好きの大きさなのか、楽だからなのかまだ答えは見つかっていない。
しかし、間違いなくドラマ鑑賞は「好き」と「楽」のポイントが高い。

楽な方に逃げている気がして罪悪感を感じるのだろう。


時間や人生は有限であることはわかっている。
自分が何に充実感を得るかもわかっている。
それなのに、行動せずウジウジしている自分のことはあまり好きになれない。

「何もしない日」に罪悪感を覚えない日はきっと「何もしない日」以外の日が充実しているのだと思う。
毎日何かに一生懸命取り組んで、自分はよくやっていると思えば「何もしない日」も許せる日が来るのではないだろうか。

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