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『母になって後悔してる』

『母になって後悔してる』、なかなか重いタイトルだ。『女ぎらい』とか、そういう本を手に取るときは全く感じなかった抵抗を、この本に関しては強く感じた。

母になって後悔しているか?と問われると、答えはノーだ。私は後悔していない。
娘を育てて3年が経つが、今の知識と経験を持って娘が生まれる前の過去に戻るなら、あなたは母になることを選びますか?と問われると、答えはイエスだ。私はやはり同じ道を辿ることを選ぶだろう。

『母になって後悔してる』は、今答えた2つの問いに対して私とは真逆の回答をした女性たちの声が取り上げられている。

彼女らの恐ろしく深い後悔について読み進めている時、私が思い出したのは妊娠する前の頃のことだった。
いつ妊娠反応が陽性になるか分からないせいで常に生活には制限が付き纏い、酒は飲まず、毎月月経周期を気にして暮らしていた。
私は強い気持ちで子どもが欲しいと思っていたわけではなかった。夫も義実家も実の両親も、誰一人として私に早く妊娠するよう急かしたことはなかった。
それなのにどうして生もうと思ったのか、はっきりと言葉で説明するのは難しい。
自分の意思だけで生むことを決めた、と格好良く言い切ることはできない。同世代の人間に置いていかれたくないという気持ちもあったし、産まないことについて周囲からあれこれ言われたくないという気持ちもあった。あの頃の気持ちは複雑で、私がどうして子どもを生もうと思ったのか、いまだにはっきりとした答えを出すことはできない。

周囲の誰一人として私にプレッシャーを掛けたりはしなかったのに、私は社会が放つ無言のプレッシャーに、つまり内面化された規範に負けて生むことを選んだ。認めたくはないが、そういうことだ。
そんなことのために子どもを産んだのか?と言われると何も申し開きができない。バカみたいだというのは自分が一番よく分かっている。しかし、『母になって後悔してる』で取り上げられた母たちの声の中には、社会に受け入れられたかったから母になったという声が何度も取り上げられていた。
社会に受け入れられたい、同世代においていかれたくない。疎外感を感じたくないから生むというのは、ごく一般的な感情だろうと思う。子どもを愛し、育みたいからという理由だけで人は母になるわけではないのだ。


『母になって後悔してる』の中で、子どもを育てる自分の様子を以下のように述べた一節がある。

”家に小さな人がいて、そばで成長していくと────愛着が芽生えます。どうすることもできません。理解の範疇ではなく、何か、原始的なことなのです。ナショナルジオグラフィックの自然番組に出演しているような気分になった時期もありました。なぜなら……最初の数年間は動物の本能のようなものだから。特に母乳育児はそうです。何らかの作用が働くのです。それは愛情であり、愛着なのです”

『母になって後悔してる』より抜粋

ナショナルジオグラフィック。これは私の身にも覚えがある。
娘が生まれる前から、私は絶対に母乳育児をしようと心に決めていた。赤ちゃんに抗体が移行して感染症のリスクを下げることができるし、スキンシップも取れてダイエットにも役に立つ。母乳育児をしない理由がないよね、くらいに思っていた。

しかし、生まれた娘はびっくりするほど母乳を飲まなかった。ミルクが大好きで、母乳を吸わせようとすると顔を真っ赤にして怒る。赤ちゃんが母乳を飲みたがらないなんて、そんなことがあり得るのか?と思ったし、実際あらゆることを試した。
助産師さんが開催している授乳のためのクラスに参加した。飲まない。授乳用のクッションを買って体勢を整えた。飲まない。授乳の間隔を最適にした。飲まない。小児科医の指導も受けた。絶対に飲まない。
最終的にはAmazonで搾乳用のツールを買って機械に吸わせ、冷蔵庫に母乳を保存して哺乳瓶で飲ませた。これは飲んだ。でも、直接吸わせようとすると意地でも飲もうとしなかった。

ミルクよりも母乳栄養が良いというのは医師として繰り返し学んできたことで、私は母乳栄養に固執していた。絶対に母乳の方が良いに決まっている、頼む、飲んでくれ!でも、娘は直接吸わせようとすると顔を真っ赤にして怒り、哺乳瓶にミルクを準備するとクッションなしの抱っこでとんでもない体勢を取っていても、絶対に全て飲んだ。正直、授乳のためのクラスも授乳用のクッションも何の役にも立たなかった。

産後1ヶ月くらいが経ったとき、夫が言った。”もう、母乳をあげるのは今日でおしまいにしよう”と。
どうしてそんな酷いことを言うのか全く分からなかった。私はあらゆる努力をしていたし、母乳を娘に吸わせ、吸わせていない間は搾乳機に吸わせて何とか飲ませようとしていた。
でも、夫が出した答えはノーだった。もう、ミルク育児一本に絞ろうと強く言われ、搾乳機もその日に即捨てることになった。その時は、なんて酷いことをするんだろうと本気で思った。夫が新生児も診る小児科医でなければ、夫に噛み付いてでも母乳育児を続けていたと思う。

でも、数ヶ月が経って胸が張るようなこともなくなった頃、初めて、ああ、これで良かったのかもなと思った。その後保育園に通い始めても、ミルクで育った娘は月に1回も風邪をひくこともなく、今のところ健やかに成長している。
あの時無理矢理にでも、唯一母にしかできない役割である母乳育児を奪われたことが、私が母であることの重みを軽くしてくれた気がする。いつだって誰かに代わってもらえるのだと、私が手を離しても大丈夫なのだとあの時思えたことが、私の気持ちをいまだに軽くしくれている。


母になったことを私は後悔していない。
娘が生まれた直後の育児は嵐のように大変だったが、今は自由な時間が少ないとか、娘が家にいるとなかなか家事も仕事も進まないとか、そういう悩みしかない。今のところ私の育児にまつわる事態は深刻ではない。

しかし、ひとりの人間を育てる重みにゾッとすることもある。
もう34歳になるというのに、いまだに私は母に言われた嫌なことを覚えている。あの時もっと優しくしてほしかった、とか、幼かった頃の生々しい傷をいまだに抱えている。
そういう思いは成長しても子どもの中には必ず残っている。子どもの親に対する期待は驚くほど強いから、裏切られた時の思いは一生残る。

不用意な一言を娘に言わないよう十分注意しているが、育児は少なくとも20年は続く。長い長いその間に、私が不用意な一言で娘を傷つける日がいつか来る気がしてならない。
私が発した言葉が娘を傷つけた時、そればかりは誰にも責任を代わってもらうことはできない。母と子である以上、私と娘は長い時間を共に過ごし、お互いが一緒にいない方が良いと思うような時期ですら、生活を共にしなければならないだろう。
私はその時、母という圧倒的に優位な立場を利用して、娘を傷つけるかもしれない。後悔してももう遅い。今は平気な顔でいても、いつの日か、一人の人間が人間を育てるというあまりにも重い責任を、そんなものを背負い込んだことを、母になったことを後悔する日が私にも来るのかもしれない。


Big Love…