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見られてもいいが見られない

日曜日だ〜。こんばんは、週末のnote更新です。

みなさん、他人のいいね欄、覗いてますか〜?

私のnoteを読んでいるような人間は全員Twitterをやっていると思うが、念のためいいねについて説明しよう。
Twitterにはいいね欄というものがある。いいねボタンはツイートにくっついているハート型のボタンで、ツイートに貼り付けてある記事を後で読むためにブックマーク代わりに使うこともあるが、原則ツイートに対する好意を表明するために使用する。
各アカウントのプロフィールにはそのアカウントがいいねをつけたツイートが蓄積している場所があり、それがいいね欄だ。

私はTwitterを10年以上やっているので、”あなたがTwitterをやめる日が、私のTwitter最後の日です…”というような重い気持ちを抱いているアカウントが幾つかある。Twitterにおける”推し”だ。
推しに対する愛情をはっきりと口に出したことはないが、抱く愛はそれなりに重い。しかし、私は推しのいいね欄を覗こうと思ったことがない。

先日、"私のいいね欄は最高!全人類覗いとけ!"みたいな不遜なツイートを晩酌中に放流した(酒を飲んでいる時にツイートをするとろくでもないことを書きがちである)。

翌朝起きて質問箱を覗いたら、"お前に言われなくてもとっくに毎日見ているが?これからもよろしくな…(意訳)"みたいなメッセージがそれなりの量で届いていて、自分で覗くことを勧めておきながらかなりびっくりした。

私はいいね欄のことをあまり信じていない。

”推し”のアカウントはまとめて鍵付きのリストに入れてツイートを絶対見逃さないように管理しているし、noteなどで有料の文章を書いている推しには課金しているし、本など出した日には確実に発売日に買うが、それでもいいね欄は見ない。見たいけど我慢とかでもなく、見ようと思ったことがない。

これは多分、作り込みに対する信頼の問題だと思う。

例え軽い気持ちで書いている短いツイートであっても、それはその人が"人に見せよう"と思って書いている文章だ。いいね欄はそうじゃない(※私個人の意見です)。というのも、私自身がかなりテキトーにハートを押しまくっている自覚があるからだ。

オッ、名前は知らんけどかわいいキャラのイラストだ。いいね。文脈はよく分からんがアンタのこのツイート、ウケるわ。いいね。フォロイーが昼間っから泥酔してる。いいね。

ハートのボタンを押すときに外野の視点を意識したことはなく、作り込みは皆無である。あまりに"見てるぞ…(意訳)"報告が来たので自分のいいね欄を久しぶりに見返してみたのだが、ツイートの宝石箱やぁ…!みたいな高揚した気分にはならず、ああ、この温度感のインターネットが私は好きだなあとしみじみ実感した。理想のタイムラインじゃん、こりゃあいいや…。

”推し”のアカウントの理想のタイムラインが気にならないと言ったら嘘になる。いいね欄を覗かれることを予め想定して作り込んでいる人もいるんだろう。それでも、私自身の作り込みの甘さゆえに、そしてその甘さを"きっと、私の好きなあのアカウントも作り込みが甘いに違いない"と勝手に押し付けて、"じゃあ、覗かんとこ"と思っている。

作為のない無防備な場所を覗いた時、私が勝手に推しに抱いた理想からズレた部分を検出してしまったら、覗き見をした自分自身を責めるしかなくなってしまう。勝手に期待して勝手に失望する自分自身のダサさに絶対耐えられない。

とまあ、うだうだ理屈っぽく書いたけれど、実際はタイムラインとリストを追うので精一杯で、いいね欄まで覗いてる時間がないというのがリアルな理由です。ちなみに自分自身がいいね欄を覗かれるのは全然平気です。どんどん見てってください。

ここまで書いて、なんだか脱力してしまって文章が出てこなくなった。
今日は子どもに付き合って一生分の工作をしたから疲弊している。ハサミで紙を切っては貼り、切っては貼り…。明日からまた仕事だ。仕事の方が気が楽だと思う日もある。それが今日。それでは皆さん、素敵な週末の夜をお過ごしください。

Big Love…