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制服で勝手にジャッジしないで

前回の更新で完全に味をしめたので、今回の更新もスマートフォンからお送りします。こんばんは、木曜日の更新です。

新型コロナが流行り始めてから、そして自分が子どもを産んでからなるべく寄り道はせずに家に帰るようにしていたんですが、職場-幼稚園-自宅を三角食べのごとく行き来していたら段々世界の狭さに気が狂いそうになってきたので、最近は退勤後に積極的に寄り道をするようにしています。

今日は久しぶりにこの駅で降りた。四ツ谷駅。

四ツ谷駅と言えば大抵の人にとっては上智大学なんだろうけど、私にとってはイグナチオ教会です。高校までミッション系の学校に通っていたので教会にはしょっちゅう行っていたのに、大学入学以降は足が遠のいていた。多分15年以上ぶりの来訪。

一番大きな聖堂では追悼ミサをやっていたので脇の小さなザビエル聖堂へ。撮影禁止なので写真はないのですが、私はイグナチオ教会のザビエル聖堂が好きで、学生時代も足を運んでいたのは決まってこの場所でした。壁は土壁で、奥には水盆。小規模で地味な聖堂です。

私は欲深い人間なので、初詣に行くとお参りの長い列に並んでいる最中から何を願うか考え、賽銭を投げた後は"もう少しマシなものが書けますように!!私が書いたものを読んでくれるひとがちょっとでも増えますように!!"と真剣に繰り返し神に祈っているのですが、久し振りに来た教会では驚くほど頭の中が静かでした。

この静けさは信心深さから来るのではなく恐らく習慣のなせる技で、キリスト教のミサ(教会で行われる典礼)では主の祈りなど決まった祈りを形式に沿って唱えるだけで、各自がオリジナルの願いを神に訴えるタイミングがありません

ミッション系の学校に通っていた頃は気づかなかったけれど、ミサで合格祈願とかも一切やったことがなかったな。高校3年の最も神に縋りたい時期ですら、ただいつも決められた通りの祈りを唱え、讃美歌を歌っていた。

あまりに頭の中が静かになってしまったので、聖堂の中でただ目を閉じてジッとしていた。いつも余計なことばかり考えているから、何も考えずにいるのは結構新鮮だったし、かなりリラックスできた。信心深くもないくせに、”何かに許されている…”という感覚だけがあった。

聖堂は静かで清潔で、微かに白檀の香りがした。教会って何時間無言で目を瞑って座っていても追い出されないのがすごい。私が聖堂から出る時、入ってきた時と全く同じ体勢で祈っているお婆さんがいた。

結局30分くらい聖堂に滞在し、出口のところにある募金箱に寄付金を突っ込んで帰ってきた。教会の運営は寄付のみで成り立っているそうです。えらいことですね。アーメン。

教会から出た途端に煩悩まみれになり、そうだ、以前から行ってみたかった胡椒餅の店に行こう…と思った。

定休日だった。そんな殺生な…。

ちなみにこの店の目の前にはめちゃくちゃ有名な鯛焼き屋があり、そちらにも興味があったのだが、死ぬほど長い行列が出来ていたので諦めた。下調べもせずに突撃した私が悪いのだが、飲食店に2連続でフラれたので、四ツ谷の道の真ん中で転げ回って暴れてやろうかと思った。教会に行ったのに全然気持ちが清らかになっていない。

近くにカステラ屋があったので買って帰った。坂本屋のカステラも気になってたんだ…助かった。

向田邦子のエッセイには”持ち重りのする”という単語が繰り返し出てきて印象的なのだが、坂本屋のカステラもまさに持ち重りのするカステラだった。ずっしりと重い。味は飾らないシンプルな感じで好みだった。

包みからは”紙の匂い”がした。古い和菓子屋さんの包みからしかしない匂い。この匂いがすると、私は無条件に”良い店だなあ”と思ってしまう。

胡椒餅のお店は店構えもかなり良かったので、絶対にリベンジします。

それにしても、四ツ谷は制服を着た女の子が多い。私も制服を着た女の子だったので、先生や親から”制服を着ているときは学校の看板を背負っているんだから言動に気をつけなさい”とよく言われていた。そして、そう言われるたびに”うぜ〜”と思っていた。

認めたくはないが、大人になってみると彼女たちが言っていた意味がよく分かる。制服を着ている子は、その学校の顔である。でもワンシーンを切り取ってその学校のイメージを勝手に判断する大人ってやっぱりダメじゃない?先生や親が言っていた意味はわかるけれど、勝手にジャッジする大人の方が自制すべきだと私は思うな〜。

Big Love…