7月8日のこと

元首相が銃撃されてからまだ2日しか経っておらず、あの日のことについて書くのは早すぎるのではないかと思ったのだが、やはりどうしても忘れられないから書く。書けばどうにかなるものでもないが、ここ数日は事件のことが頭から離れなかった。

7月8日、午前は勤務先で外来当番をやっており、最後の患者を待っている間にTwitterを眺めていたら、”安倍元首相が銃撃された模様”と速報が入ってきた。最初はちょっと意味が分からなかった。速報が入って即Twitterを見ていたせいで、タイムラインではまだ誰も反応しておらず、何かの間違いなんじゃないか?と思った。

その後心肺停止との報が入り、動揺したまま午前最後の患者の診察が始まった。外来には秘書さんがついてくれていたので、よっぽど、”ニュース速報見ましたか”とききたかったが、そんなことをきいて何になるんだ?と思ったので何も言わなかった。
検査結果を説明する声が一瞬淀み、いけないと思って目の前の患者さんに意識を集中させた。特に問題もなく午前の診察が終わった。

速報が入って第一に思ったのが、これは搬送先の救急医が気の毒だなということ。それから、参議院選挙の最中にこんなことが起きて、投票結果に大きく影響するだろうなということだった。動揺しながらも、この時点ではそこそこ冷静に物を考えていたつもりだった。

しかしその後、銃撃される瞬間の映像を何度も目にして(見なければ良かったんだろうが)、気持ちがどんどん暗い方へと傾いていった。
3次救急病院にヘリで搬送される元総理は心臓マッサージを受けていないようにも見え、心拍が再開したのではと一瞬期待を抱いたのだが、よく見ると胸の上に載せられた布が微かに上下しており、恐らく機械式の胸骨圧迫装置を使用しているのだろうと思ってかなり落ち込んだ。

私は特に自民党を支持しているわけでもなく、安倍元総理に特別な感情も抱いてはいない。なので、午後の仕事の最中もずっと気持ちが落ち着かなかったこと、仕事の終わった17時過ぎに死亡の速報が入った時にはひどく落胆して泣いたことに自分自身、正直驚いた。

3次救急病院にいた頃、救急外来で何人もの患者さんを見送ってきた。
正直、搬送されてきた時点で成す術もないケースは存在する。医学は万能ではない。CT画像で脳に出血が認められ、肋骨が肺に刺さり、大血管が損傷されて、明らかにどうすることもできないと分かっていても、それでも手を止めることは許されない、そういう状況はある。もう取り返しがつかないかもしれないと心のどこかで思いながら、胸腔内にチューブを入れて溜まった血液を掻き出したり、許す限りの輸血をしたりする。

望みがないと理解しながら家族の到着を待ち、懸命に処置を続けるあの時間は、医師として働いてきた10年あまりを思い返しても、最も辛い時間だった。今朝元気に扉を開けて”いってきます!”を言った愛するひとが2度とこの世に戻ってこないなんて、どうやって信じられるだろう?人間には、そういう事態に耐えられる機能なんてついていないのだ。それなのに、この世のどこかで似たようなことは起こり続けている。

実際、7月8日にそれは起きた。彼の政治的功罪、また、戦後最も長い首相在任期間において、彼が主導した政治によって傷つき、亡くなった方々がいたことは(十分かつ完全な形ではないだろうが)理解している。

それでもやはり、私は悪意によって彼が命を奪われ、医学の叡智を結集させてもそれを助けることはできなかったことに、深く傷ついている。演説の場で倒れ、意識のなかった彼に心臓マッサージを施した人がいたこと、搬送先で数十人の医療従事者が彼を救おうと尽力したこと。たった一人の悪意を前に、医療が太刀打ちできなかったことに、2日経った今でも気持ちの整理がつかないままである。

何がそんなに悲しいのか、自分自身でもよく分からない。友人でもない、深くも知らないどこかのおじさんが死んだ、ただそれだけのことだ。
それでも、常日頃他人の命をなんとか引き延ばそうと努力するのが私の仕事なので、地道な10年以上の努力が、それは私だけでなく私の周囲の医療従事者の努力でもあるのだが、真っ向から否定されたように感じて悲しいのかもしれない。
手術室に行く余裕すらなく、到着後処置室で開胸となったこと、壮絶な量の輸血が行われたことは後の報道で知った。命を奪った二発目の銃声が響いたあの一瞬と、その後5時間ほど救命のために尽くされた多くの人々の力がどうしても釣り合うように私には思えなくて、ただただ悲しい。

私が救急外来で見送ってきたのは、ごく一般的な、市井の人々だった。悲報を受けた家族が救急外来に入ってきた瞬間、愛しいひとの名前を呼ぶ悲鳴のような声は、一生かけても忘れられないくらい耳にこびりついている。今回彼が搬送された病院では、一体何人の人間が処置室を訪れ、一体何をどのような声で語ったのだろうか。

想像を絶する強いプレッシャーの中で開胸を行い、最善を尽くされた現場スタッフの方々の心情を思うと涙が出る。政治信条とは関係なく、私たちには現場に運ばれてきた人間を助ける義務がある。こういう形で命が奪われるのを目の当たりにすると、どうしたってつらい。医学が悪意に負けるところを見たくなかったというのが正直な気持ちだ。心からご冥福をお祈りする。

Big Love…