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なぜ没頭は永遠に所有できないのか

年度末なので忙しい。3連休は子どもの世話と仕事で終わってしまった。残りの時間はずっと本を読んでいた。

最近、永井均の『遺稿焼却問題』を皮切りにして、哲学本ばかり読んでいる。哲学に詳しい人って何だか頭が良さそう!という安易な動機でかつて哲学本に手をつけたことが何度かあったのだが、いずれも完敗し早々に投げ出した。私は新しいジャンルに入る時古典から手を出す癖があり、哲学の古典は当然どれもこれもめちゃくちゃ難しいので、哲学本を読んで格好良くなりたいな〜くらいの軟派な動機では全く歯が立たなかった。

今回の『遺稿焼却問題』は、SNSで信頼している読み手が複数人勧めていたので手に取った。永井均の著書を手に取るのはこれが初めてで、実際難しい記述も多かった。が、全く歯が立たないほどではなく、自分なりに理解できる箇所もあり、何とか通読することができた。”読みました!”とtweetしたところ、他にこれを読むと良いよと勧めてくれる人たちが現れたのでその流れで永井均の書いたものを何冊か買った。また、永井均自身が著書の中で読むように勧めていた山口尚の本も素直に買った。

哲学の本と相性が良いなと感じるのは、人生に対する態度に著者たちと似たものを感じるからかもしれない。数週間前に限界しりとりに没頭しているというnoteを書いたのだが、もうすでに飽きてしまってここ数日はアプリを触っていない。勝てなくなったからとか明確な理由があるわけでもなく(1週間程度のプレイでS+0までランクを上げられて嬉しかった)、ふつりと飽きて手を離してしまった。

たかがゲームに飽きた程度のことを大袈裟な書き方をする必要はないが、何かに飽きる度、没頭は永遠に続かないことに気づいてちょっと凹む。没頭は世界の眺め方を変えてくれる。限界しりとりにハマっている最中は目に映る単語の文字数ばかり気にしていたし、そういう世界の眺め方が加わったことで、今まで見慣れていた景色が全く違うものに見えてワクワクした。

なぜ全ては容易に色褪せてしまうのか、没頭は永遠に所有できないのか。先日読んだ千葉雅也の『現代思想入門』という本に(とても分かりやすくて良い本だった)”対象a"という単語が出てきた。ラカンという哲学者が提唱した言葉だそうである。

”人は対象aを求め続けます。
ラカン理論はひじょうに意地悪で、何らかの対象aを仮に手に入れたとしても、本当の満足には至らないということを強調します。対象aというのはある種の見せかけであって、それを手に入れたら幻滅を同時に味わうことになり、また次の「本当に欲しいもの」を探すことになる。そうやって人生は続いていく”

千葉雅也『現代思想入門』より引用

きちんと理解できている自信はないが(哲学の本を数冊読んだだけのど素人なので間違っていても許して欲しいというエクスキューズを予め行っておく)、ラカンによると、人間は本当の欲望の対象を掴むことは決して出来ないんだそうだ。人間が何かを望むとき、対象aがそこには必ず作用しており、しかも対象a自体はこの世には実在しない。喉から手が出るほど欲しい対象aの周りを私たちはぐるぐる回っているだけで、一生そこには到達出来ないというようなことが書いてあった。

つまり私たちは真の幸福に到達することは絶対にできないということになり、ラカンの対象aに関する記述は絶望的な話として解釈可能かもしれない。が、絶対に手の届かない理想の周りをぐるぐる回って苦しんでいるのは私だけじゃないんだなという安心が先に立って、私はどちらかというとほっとした。

”思うに、理想の充実した人生というものが自分の頭の中にあって、休日の直前にはそれが実現できるような気がしているのだが、実際には週末や他の平日の埋め合わせをするのに精一杯で、全くそんな理想には追いつけやしないのだった。そもそも、理想の充実した休日の過ごし方が何なのかもよく分からない。どこか遠く(どこ?)に出かけたり、高尚っぽい芸術(何?)を楽しんだりすることが私の中では理想の充実に近い気がするのだが、全く具体例が出てこない。具体例も出せない理想はタチが悪い”

先週のわたくしのnoteより引用

この記述は対象aに近いんじゃないかと思った。私が今まさに悩んでいることを、私が生まれる前に書いておいてくれた人がいる!多分私はラカンの書いたものを読むべきなんだろう。

”大仰で空疎な問題が、哲学の問題なんじゃないんだ。そうではなく、<子ども>の驚きを持って世界に接したひとがーそのとき感じたもっとも素朴な問いこそが、哲学の問いなのだ。そこから哲学をはじめることができるし、ほんとうを言えば、そこからしかはじめることはできないのだ。
(中略)
はじめから問いを共有しない人には、その主張の哲学としての意味は分からないのだから”

永井均『<子ども>のための哲学』より引用

哲学本を読んでいるとほっとすることが多い。ヤスパースによると(こういう引用をするとすごく賢そうな感じがしますね)、哲学の本質は「途上にあること」なのだそうだ。哲学は、永遠に未完成だ。何らかの真理に到達することを目標として据えつつ、そこに到達することよりもその過程となる歩みを重視するのが哲学である。
”何者かになること”や、”社会にとって有用な人物であること”が重視されがちな現在において、人生はそもそも志半ばで終わるものだと述べてくれる哲学本を読んでいると、私は逆説的に元気が湧いてくる。

最近は制御不能の3歳児と一緒に暮らしているせいもあって、今日も特に何も成し遂げられなかったな、と思うことが多い。私には何かを完成させたり何かを打ち立てたりすることを良しとしがちな成果主義的な性質があり、何も進歩のない日を重ねることへの恐怖感が魂に染み付いている。

完成させずとも良い、全ては未完成なプロセスの途中でありそれこそが人生の本質だと言ってもらえると安心する。今日一日、何も成し遂げられなくても大丈夫だ。全ては発展の途上にあるのだから、諦めずに本を読んだり書いたりすることが、死ぬまで決して対象aに辿り着くことができないらしい人生に対する私の唯一かつ精一杯の抵抗だという気がする。


引用文献:
永井均『<子ども>のための哲学』 講談社現代新書
千葉雅也『現代思想入門』 講談社現代新書

Big Love…